今回の配達先は、アメリカ。カスタムバイクビルダーとして活躍する佐々木敬之介さん(45)へ、福岡で暮らす母・一枝さん(71)の思いを届ける。
ニューヨークのブルックリンにカスタムバイク工房「ケイノサイクルズ」を構えて11年。敬之介さんはオーダーメイドのバイク製作はもちろん、装飾やパーツ作りから修理までバイクのことならどんなことでも引き受け、その作業すべてを一人で行っている。オーダーの内容は“カッコいい”“乗りやすい”あるいは“乗りにくいけどカッコいい”など人それぞれ。そしていつも設計図はなく、バイクの顔となるタンクを一から作る時でも長年の経験と勘を頼りに、頭の中に描いた構想を形にしていく。「わざとらしくない、派手すぎない」そんなバイクづくりを心掛けているという。敬之介さんが手掛けるバイクは雑誌やテレビでも度々紹介され、有名バイクメーカーから直々にカスタムを依頼されることも。今や全米屈指のバイクビルダーとしてファンの注目を集めるが、「お金稼ぎに走ればもっと稼げるとは思うけど、でも嫌な仕事は断る。俺の名前が付いていたら、俺の評判になる。だからベストを尽くすことが出来ない仕事はやりたくない」と信念を貫く。
敬之介さんがバイクの世界を志したのは大学時代。周りが就職試験を受ける中、「好きなバイクで食べていけたら」との思いが芽生えた。そんな時、偶然雑誌でアメリカの整備学校の記事を目にしたことから24歳で渡米。ハーレーのメカニックスクールに入学し、その後ニューヨークのカスタムショップで見習いのメカニックとしてキャリアをスタートさせた。見よう見まねで地道に技術を修得していた頃、運命的に出会ったのが生涯の師匠となるインディアン・ラリーさん。敬之介さんは伝説のカスタムビルダーであるラリーさんの元でカスタムをいろはから学び、いつしかその右腕といわれるまでになる。しかし2004年、ラリーさんはバイクスタントの事故により他界。敬之介さんは師匠の技と哲学を引き継ぐべく、アメリカで生きていくことを決意したのだった。
そもそもバイクに興味を持ったのは、父・修さんの影響。板前として忙しい毎日を送るかたわら、子ども達と一緒にカスタムもしていたほどのバイク好きだった。そんな修さんにがんが発覚したのは、敬之介さんが渡米した後のこと。亡くなる直前まで「息子にできるなら俺も…」と一人でバイクを作っていたという。そのバイクを今も大切に保管している母の一枝さん。初めて敬之介さんがアメリカに行くと聞いたときはかなり驚いたと振り返るが、現在の姿を見て「タンクを作っているところなんか主人にそっくり。今、魂となって向こうに行っているのかな」とほほ笑む。
アメリカに渡って20年。父から受け継いだバイクへの情熱を胸に自らの道をひた走り、今や全米で人気のカスタムビルダーとなった息子へ、母の想いが届く。