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#4613月25日(日)10:25~放送
海の向こうの大切な人は今…

 9年前、多くの外国人移民が住むアメリカ・サンフランシスコで僧侶として活動していた佐竹英里子さん(当時37)。寺の長女として育った彼女は日本でOLをしていたが、結婚を望む母から何度も見合いを勧められ、それが嫌で日本から逃げ出し8年が経っていた。父で住職の哲英さん(当時67)と母・吉子さん(当時61)はそんな英里子さんをとても心配していた…。
 当時、現地の語学学校で受付の仕事をしながら、ひょんなきっかけからボランティアで月に1回「写経の会」を開くようになっていた英里子さん。自らも得度して僧侶となっていた彼女の親しみやすいお経の解説は評判で、故郷を離れた多くの日本人の心を癒す場になっていた。英里子さんはその活動の中で、いつしか「人々の心の拠り所となるようなお寺を作りたい」と大きな夢を抱くように。
 20代の頃は、早く結婚してほしいと願う母の勧めで35回も見合いをさせられたという英里子さん。娘の幸せを願ってのことだったが、英里子さんは「母の愛情があふれすぎて窒息しそうだった」と振り返る。だが、日本を離れて8年の月日が流れ、母への気持ちは徐々に変わってきたという。この地でさまざまな経験をしたことで、自分自身が変わったからだと振り返る。一方母も「私なりに精一杯娘を育ててきたつもりですが…あの子には負担だったんでしょうね」と、いつしか娘の気持ちを理解できるようになっていた。
 そんな母から届けられたのは、英里子さんが幼稚園の頃に使っていたバッグと弁当箱。母が30年以上大切にしていたもので、弁当箱の中には英里子さんと家族の歴史を収めた手作りの小さなアルバムが収められていた。そこには、英里子さんの人生を応援する母の想いが綴られ、英里子さんは涙した。互いに大きな愛情を抱きながらも、すれ違ってしまった母娘の距離が近づいた瞬間だった。 
 あれから9年。英里子さん(46)の姿は京都にある実家の寺にあった。前回の取材から1年後日本に帰国し、父の跡を継いで住職となったのだ。しかし、なぜアメリカの生活を捨てて帰国したのか?そこには寺を継ぐはずだった弟の存在が大きく関わっていた。英里子さんは「たかだか見合いぐらいで家出した自分が…」と、自らの身勝手を思い返す出来事があったのだという。彼女は、日本で僧侶として生きる決意をしたのだ。
 現在、英里子さんは大学院に通い、仏教についてあらためて学び直すとともに、親鸞聖人の言葉を親しみやすい現代の表現で伝える内容の本を執筆中。また講演活動を行うなど精力的に活動する中で、檀家を集めてサンフランシスコと同じく「写経の会」を始めていた。釈迦の教えを親しみやすい言葉で説くこの会を、英里子さんは「自分のルーツ、根っこ」だと話す。その会場には、彼女を見守る母・吉子さん(69)の姿もあった。
 日本を飛び出してからこれまで、多くの人と出会い様々な経験を積み重ねたことで、人々に生きる道を指し示すことができる僧侶として成長した英里子さんを、かつては娘の結婚を願っていた母はどんな気持ちで見守っているのか?