今回の配達先は南米・パラグアイの首都アスンシオン。日本語学校の教師として働く瀧野宝子さん(36)と、兵庫県に住む父・茂さん(80)、姉・賀子さん(41)をつなぐ。2年前、幼い息子を連れてパラグアイへ渡ったシングルマザーの宝子さん。父は「子供を連れて大変だと思うが、日本にいても大変なのは同じだからと2人を送り出した」というが、母子2人きりでどんな暮らしをしているのか、とても心配している。
宝子さんの職場は「アスンシオン日本語学校」。日系移民が日本の文化を受け継いでいくため、50年前に創立した学校で、3歳児から高校生まで約140人が学んでいる。パラグアイへの移民が始まって80年。ほとんどの日系人は現代の日本を知らず、生きた日本語を話す日本人教師は常に求められているという。宝子さんが仕事をしている間、息子の潤平くん(8)は、この日本語学校で小学校クラスの授業を受けている。職場と学校が同じ場所であることは、2人にとって理想的な環境だという。
日本ではグラフィックデザイナーとして活動し、海外アーティストのCDジャケットなども手掛けるかたわら、自らもボーカリストとしてステージに立ち、音楽活動を行っていた宝子さん。27歳で潤平くんを出産したが、のちに離婚。それまで常識にとらわれることなく、自分らしさを貫く人生を送って来たが、シングルマザーとしての暮らしは楽ではなく、生きることに必死で、「いいお母さんにならなきゃというプレッシャーが大きく、日本での子育てはつらかった」と振り返る。
そんな時、バンド仲間がパラグアイ旅行へ誘ってくれた。息子が小学校に入るまでの3か月間だけパラグアイで暮らす…そんなつもりでこの国へ。だが、滞在中のアルバイトとしてこの日本語学校で働き始めたことで、すべてが変った。「せっかく子供たちに教えてきたのに、すぐに日本に帰ってしまうのが子供たちを裏切るようで…」。彼らを裏切りたくない…そんな思いから移住を決意したのだ。幼子を連れてパラグアイへ移住することには否定的な知人も多かったというが、宝子さんは「ここでは常に息子と一緒にいられる。日本で仕事をしながら子育てをすることを思うと恵まれている」と話す。
息子と2人、異国の地で生きることを選んだ宝子さんだが、ひとつだけ後悔していることがあるという。それは去年急死した母の死に目に会えなかったこと。たったひとりの孫の潤平くんをとても可愛がってくれた母。宝子さんは「パラグアイに渡ってから1度も潤平に会わせてあげられなかったことが本当に申し訳ない。ただ、娘として唯一親孝行できたのが潤平だった」といって涙をこぼす。
パラグアイに来て2年。決して裕福とはいえないが、愛する息子を守りながら自分らしく生きる宝子さん。そんな彼女に届けられたのは、使い古された父のスペイン語辞典。スペイン語はパラグアイの公用語でもある。添えられた手紙には、父も若かりし頃、スペイン語圏の国へ渡ることを目標にスペイン語教室に通っていたことが明かされ、“若き頃の夢として届けます”と綴られていた。宝子さんは「初めて聞きました。父との距離が縮まった気がしてうれしい」と涙をこぼし、「息子は必ずちゃんと育てます」と、父と姉に誓うのだった。