今回の配達先はアメリカ・オハイオ州フィンドレー。ここで日本文化を伝えるコーディネーターとして奮闘する飛驒文音さん(27)と、京都に住む父・義則さん(55)、母・小代子さん(54)をつなぐ。文音さんは3年前、日本で交通事故に遭い、右目を失明。左足も自由に動かなくなってしまったが、夢を実現するため、昨年アメリカへ渡った。母は「一度は死んだと思ったほどの事故だった。好きなことをやって、悔いのない人生を送ってほしかった」と、送り出した当時の思いを振り返る。
文音さんは外務省の関係団体が実施している「JOIプログラム」のコーディネーター。町のシンボルであるフィンドレー大学に併設されたアメリカ最大規模の絵本美術館「マッザ・ミュージアム」に勤務し、日本の絵本についてのガイドを行っている。JOIプログラムは、アメリカの日本人が比較的少ない地域へ、日本文化を広めることを目的に人材を派遣するもので、彼女は多くの応募者の中から選ばれ、1年前からこの町で活動しているのだ。
仕事はガイドだけにとどまらず、地元の小学校に出向いて折り紙の授業を行ったり、老人会で箸の持ち方を教えたり、書道を教えるなどの活動も。いずれも元々あったプログラムではなく、文音さんがすべて一から自力で切り開いてきたものだ。初めは3つほどだった授業も今では15に増え、逆に地元の人たちからオファーされることもあるという。
大学卒業後、ハワイに留学したのをきっかけに、「日本文化を教えたい」と、日本語の先生を目指すことを決意した文音さん。そんな時に見つけたのがJOIプログラムだった。だが、応募書類の作成に取りかかった頃、日本で原付バイクを運転中にトラックと衝突する大きな事故に見舞われた。3年前のことだった。右目と左足に障害を負い、絶望のどん底に突き落とされたが、半年間の入院中、毎日見舞いに来てくれた両親と弟のお陰で、少しずつ立ち直っていったという。「ホノルルマラソンにも出たかった。やりたいことがいっぱいあったのに全部できなくなった。ショックだった」と当時の深い絶望を語る文音さん。「泣いて元の体に戻るのなら泣けばいいけど、事実は変わらない。だったら笑っていようと」。文音さんは再びJOIプログラムに応募し見事合格。念願の渡米を果たしたのだ。
この仕事を始めて1年。1人でも多くの人に、日本の文化に興味を持ってもらおうと、ひたむきに頑張る文音さん。その支えとなっているのは、日本を旅立つ日、空港へ向かう自動車の中から見た光景だという。友人たちが歩道橋の上で待ち受け“文音いってらっしゃい!”と書かれた大きな横断幕を掲げてくれたのだ。
文音さんは最近、新たなチャレンジを始めた。室内のロッククライミングと呼ばれるボルダリングだ。「富士山登山とか、死ぬまでにやりたいことがたくさんある。絶対無理だと言われたことをやってのけたい」といい、思うように動かない足で、懸命に壁をよじ登っていく。その姿を見た母は「失明を告知された時、娘の第一声が『目が片方見えなくても私、何でもできますよね!』というものだった。本当に強い子です」と、誇らしそうに話す。
そんな文音さんに両親から届けられたのは、あの横断幕。そこには父から「人に迷惑をかけず、信じた道を頑張ってください」、母からは「どこにいても強く明るく生きる文音を応援しています」と新たなメッセージが寄せられていた。それをしみじみ眺める文音さん。「アメリカに来た時の真っさらな気持ちを思い出した。もっと頑張ろう!」と自分に言い聞かせるのだった。