今回の配達先は、アルプス山脈を望む美しい湖のほとりに広がる観光都市ルツェルン。この町で楽教室を営む松岡由佳さん(47)と、兵庫県に住む父・昭雄さん(79)、母・マキさん(77)をつなぐ。かつてはヨーロッパを舞台に活躍するオペラ歌手だったが、8年前、その輝かしいキャリアをすっぱりと捨てた由佳さん。母は「もったいないとは思いましたが…でも本人次第ですから」と、娘が踏み出した第2人生を見守っている。
由佳さんは夫・マルコさん(43)、長女・アンナちゃん(10)、長男・ティム君(8)の4人家族。この地域の子供たちは学校の昼休み、昼食を食べに一時帰宅をするそうで、由佳さんは毎日子供たちと一緒に自宅で昼食をとり、2人を午後の授業に送り出した後、自宅近くの仕事場へ。由佳さんは日本でいうカルチャーセンターの一室を借り、2年前から子供たちにピアノや歌を教える音楽教室を開いている。同じカルチャーセンターではマルコさんが子供たちに柔術を教えている。彼は柔術のスイス代表チームのコーチを15年間務めた実力者。現在は会社に勤める傍ら、週に3回、この教室で指導をしている。
2歳の誕生日に音楽好きだった母がピアノを買ってくれて以来、ピアノに明け暮れた由佳さん。16歳の時に軽い気持ちで始めた歌のレッスンが、人生を大きく変えることに。「歌を始めて間もなく、“これが私が生まれてきた理由だ”と感じた」。歌うことの楽しさを知り、大学の声楽科に進学した由佳さんは、その才能を買われてオペラの本場・ドイツへ音楽留学。在学中からオペラの舞台に立ち、外国人ながら国立音楽大学の大学院を首席で卒業し、一流のオペラ歌手として活躍するようになった。
そして10年前、36歳の時にマルコさんと結婚。それを機にスイスへ渡り、アンナちゃんを出産したが、当時オペラ歌手として第一線で活躍していた由佳さんは、1年の半分以上家を空け、子育てはマルコさんと彼の両親に任せっきりだったという。家族を顧みず、キャリアを重ねることだけに邁進していた彼女だったが、ティム君出産の時、その人生が大きく変わった。予定より6週間も早く生まれそうになり、入院した由佳さんは絶対安静を言い渡されたが従わず、病室で仕事の電話をかけ続けていたという。「するとお医者さんが私の携帯電話を取り上げ“仕事をするのを止めてください!あなたはお母さんになるんですよ!子供を産むことの方がずっと大切なのが分からないの!?”って、すごく怒られたんです。そこでハッと目が覚めましたね」と、由佳さん。
今までやって来たことは、家族を持って続けるのは無理なのだと悟った由佳さんは、オペラ歌手をすっぱり引退することを決意。家族と過ごす時間を持ちながら音楽と関わることのできる今の仕事を始めたのだ。今は家族と濃密な時間を過ごせる幸せを噛みしめ、音楽教室では子供たちに”音楽を楽しむこと“を教え、公私ともに充実した日々を送る由佳さんだが、年に1回だけ、自分のためのコンサートを開いている。由佳さんは「これをやらないと爆発していますから」と笑う。
第2の人生を心から楽しみ、「これから、いろいろな新しいことを始めていきたい」と意欲的な由佳さんに、日本の両親から届けられたのはピアノのイス。由佳さんの2歳の誕生日に両親が買ってくれ、大きくなってからも使っていたものだ。懐かしいイスとの対面に、「これが私の出発点。ここから始まったんです」と感激の涙をこぼす由佳さん。「ここには私の思い出がいっぱいある。うれしいです」と、両親に感謝するのだった。