今回の配達先はラオス。国民3000人に対して医師の数が1人にも満たない医療後進国のこの国で、看護師として奮闘する平山亮子さんと、堺市に住む父・幹雄さん(66)、母・みどりさん(63)をつなぐ。日本で勤めていた病院を30歳で辞め、ラオスに渡って4年。母は「そろそろ結婚して、母親になってほしい。タイムリミットよ…と言いたい」と心配している。
亮子さんは東南アジアを中心に、日本の医療団を派遣するボランティア団体「ジャパンハート」に所属。首都・ビエンチャンの中心部から車で1時間ほどのパークグム郡病院の一角を借り受け、外科を中心とした医療支援活動を行っている。元々ラオスには支援体制が整っていなかったが、3年前に亮子さんが「ジャパンハート」の責任者としてこの国に入り、病院の確保や認可作業など、ゼロからすべてを立ち上げたのだ。今では定期的に手術ができるまでになり、亮子さんは手術の日程調整や、医師の手配など、看護師の仕事の枠を超えた活動を行っている。
手術の執刀はジャパンハート所属で東南アジアを回っている仲間の山本洋輔医師や、日本から短期ボランティアで訪れている医師らが担当する。手術の際には彼らの技術を学ぶため、現地の医師や看護師が大勢見守る。ラオスには医師の国家資格制度がなく、医科大学を卒業すれば誰でも医者になれるため、医療に携わる者のレベルは低く、手術器具を使いこなせるのはほんの一握りなのだ。「彼ら自身で手術ができるようになり、ここの手術室を機能させることが我々の最終目標」と亮子さんはいう。
高校卒業後、ずっと憧れていた看護師の道へ進んだが、看護学校時代、彼女の人生に大きな影響を与える出来事があった。最愛の祖母が病に倒れたのだ。「胃がんでした。気づかなかった自分を責めました。気づいても何もできなかったかもしれませんが、寄り添うことはできたかもしれない。“気づく"という視点は看護師としてとても大切なこと。おばあちゃんが気づかせてくれました」と亮子さんは振り返る。
その後、日本で看護師として勤務していた時、東南アジアの医療の現状を知った亮子さんは、当時結婚を考えていた男性がいたにも関わらず、海を渡る決意をした。「後悔はしていません。女性にはリミットがあるといわれますが、こういう活動もできる時が限られている。できる限りはやりたい」と決意は固い。
そんな亮子さんが何度も足を運んでいる村がある。1年前の移動診療中に出会い、足の慢性骨髄炎に苦しむ7歳の少女の治療をしているのだ。本来ならすぐに手術をした方がいいのだが、村にはいまだに古い民間療法が残っており、現代医療に対する不信感が強く、なかなか手術に踏み切れない事情があるのだ。このまま放っておくと足の成長に影響を及ぼしてしまうため、定期的に溜まった膿を出す処置を続けるしかない。「もし彼女が日本に生まれていたら、こんなことにはならないのに…。何とかその幅を埋めたい。できる限りのことをして助けたい」と、亮子さんはいう。
「ここに生まれたから、死ななくていい命が失われるケースがある。そういう差がなくなれば…」。少しでも多くの命を救おうとラオスで奮闘する亮子さんに、日本の家族から届けられたのはアップルパイ。子供の頃、おばあちゃん子だった亮子さんに祖母がよく作ってくれたもので、母と姉が遠い記憶を頼りに何度も作り直して完成させたのだ。懐かしい祖母の味に「この味です!おばあちゃんの味…子供の頃の記憶がよみがえります」と、亮子さんは祖母を思い、涙をこぼすのだった。