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#3181月25日(日)10:25~放送
ミャンマーチン州バルボン村

今回の配達先はミャンマーのチン州。標高1500mを超える山の頂に、世俗から切り離されたようにポツンと存在する集落、バルボン村。電気もガスもなく、自給自足の暮らしをするこの村で、炭焼きを産業として成り立たせようと指導に奮闘する来栖秀幸さん(66)と、和歌山に住む妻・よし子さん(65)、次男・光司さん(38)をつなぐ。和歌山の紀州備長炭職人として会社を営んでいたが、そのすべてを息子にゆだね、1人でミャンマーに渡った秀幸さん。妻は「年齢的に健康面が心配」と案じるが、次男は「僕自身も炭焼きをやっているので難しいことはわかっている。でも、父は傍から見て“絶対に失敗する"と思うようなことでもやり切ってきた」と絶大な信頼を寄せている。
秀幸さんが指導する炭焼き場では、和歌山に伝わる伝統の製法で「備長炭」が焼き上げられている。4つある窯は秀 幸さんが村人と一緒に手作りしたものだ。現在は18歳から50歳まで、男女合わせて10人の村人を指導しながら、炭を作っている。
和歌山・紀州備長炭職人の家に生まれた秀幸さん。炭焼き職人だった父に弟子入りする形でこの世界へ飛び込んで35年。秀幸さんの炭は全国の有名料理店から指名買いされるほどだという。そんな秀幸さんが66歳にしてミャンマーに渡ることになったのは、日本で見た1枚の写真がきっかけだった。「その風景を見て、そこに炭を焼ける木があると直感した」。そうしてこの地にやってきた秀幸さんは、写真と同じ風景を見つけ出したのだ。そこには直感通り、備長炭の原料となる「ウバメガシ」が大量に自生していた。「これならいい炭が焼ける」。そう確信した秀幸さんはすべてを捨てて、ミャンマーに渡ったのだ。
少しずつだが着実に成長していく弟子たちの姿を見るのも、秀幸さんの大きな喜びだという。「村の人には薪にする以外価値のない木。それを炭に焼くことでお金に換わる。すごいことだと思う」。そうして村で焼いた炭が現在4t。これらは申請中の輸出許可が下り次第、日本に初出荷される。秀幸さんの備長炭を愛用する人たちが日本で心待ちにしているのだ。
崩れてしまった炭焼き窯も、秀幸さんと弟子たちが自らの手で修理する。手作業による伝統的な窯づくりの技法を受け継ぐ職人は、今や日本でも一握りしかいない。いつか自分がこの地を離れる日が来ても、村人だけで炭作りが続けられるよう、これまで培ってきた技術をすべて弟子たちに伝えているのだ。
そして秀幸さんには、さらなる大きな目標が。ウバメカシの木はチン州全体にある。秀幸さんは10年かけてチン州各地の村に窯を作り、備長炭づくりを産業としてこの地に根付かせたいと考えているのだ。バルボン村ではそのための指導者も育成している。「自分ができる限りは続けたい。僕にとって得はないが、使命だと思っている。でもひとつも苦じゃない。“楽"なんです」と秀幸さんは笑う。
そんな秀幸さんに日本の妻から届けられたのは、大好物の「うるめのめざし」。秀幸さんは「うれしいなぁ。和歌山の名産です。最高です!」と大感激。添えられていた妻の手紙には「少し前、体重が減ったと聞き心配しています。日本の味を思い出して食べてください。家族全員で帰国の日を楽しみに待っています」と綴られていた。秀幸さんは「ありがたい」と涙し、「家族を置いてきて、心苦しいところがある。だけど使命もある。やり遂げなければダメだという気持ちでやっている」と心情を明かす。そして弟子たちと共にめざしを味わい、「最高だ!」と満面の笑顔を見せるのだった。