今回のお届け先はハンガリー。ハンドボール強豪国であるこの国のトップリーグで、ハンドボール選手として活躍する銘苅淳さん(28)と、沖縄の中学校時代のハンドボール部コーチ・東江正作さん(53)と顧問・東江功子さん(51)をつなぐ。コーチは「中学のころから彼とは世界のハンドボールの話をしていた。どのくらい成長したか見てみたい」という。
体の接触が許された激しいスポーツで、肉体的な強さが大きく影響するハンドボール。淳さんのチームメイトは全員がハンガリー人で、2m級の選手がズラリ。身長184cmの淳さんは下から2番目だが、持ち前のスピードで昨シーズンはリーグトップとなる得点数を記録。今シーズンは司令塔となるセンターポジションを任せられることも多くなった。
中学1年生の時は野球部に所属していた淳さん。ある雨の日、グランドで練習ができなくなった淳さんは、功子さんから「ハンドボール部は体育館でやってるよ」と声をかけられ、連れて行かれたのが正作さんのもとだった。正作さんは淳さんに「お前が中学3年のとき、全国大会が沖縄で行われる。お前がいたら出られるかもしれない」と告げたという。淳さんは「本当かよ?と思いました(笑)。でも夢があった。あのときに声をかけてもらえなかったら、ただなんとなく野球を続けていただけかもしれない」と振り返る。
当時の淳さんについて、功子さんは「彼は何事に対しても意欲的に取り組む姿勢があった。隣で野球部が練習しているとき、ハンドボールを投げさせてみたら、ハンドボール部の誰よりも遙かに飛んだ」といい、正作さんは「彼には体の強さとリーダーシップがあった」と振り返る。2人とって淳さんはどうしても欲しくてたまらない人材だったようだ。
女子日本代表のコーチも務めた正作さんは、中学生の淳さんにいつも世界のハンドボールのことを熱く語り、淳さんもいつしか世界に憧れを抱くようになった。その後、淳さんはU16、U19と日本代表に選ばれ、大学では2度の全国優勝を経験。実業団でも活躍し、2年前に実業団チームを辞め、念願の海外チームに入団を果たしたのだ。
淳さんは実業団時代、休みの合間を縫って子供たちにハンドボールを教えていた。淳さんが海を渡ったのは、選手としてプレーするだけでなく、コーチになるという夢のためでもあった。ハンガリーでは日本にはないトレーニングも多く、淳さんは教えることを想定しながら、毎日トレーニング記録をつけ続けているという。また、「学ぶことが多いから」と、若い優秀な選手を集めてトレーニングを行っているハンドボールアカデミーの練習を見学したりもしている。
選手としてのピークは20代と言われるハンドボール。「どこまで選手をやろうか、今とても考えている。35~36歳まで現役をやって、疲れた状態で次のステップに進んでも、今のこの気持ちで指導はできないだろう」と淳さん。どこで線引きをするべきか、心は揺れている。
人生の岐路に立つ淳さんに、恩師から届けられたのは”がむしゃら”という言葉がプリントされたTシャツ。東江コーチが淳さんら教え子たちに教え続けている”がむしゃら精神”の象徴だ。添えられた手紙には「淳は選手としてまだ不完全燃焼だと思う。選手の経験は将来指導者になった時に、必ず大きな財産になる」と綴られていた。淳さんは「今、僕ができることをやっていくしかない。今はオリンピックを目指したい。リオまでは選手として頑張って、後のことはその時に考えたい」と心を決めるのだった。