オリンピックで数々のメダルを獲得してきた水泳大国オーストラリア。その最大の都市シドニーで水泳コーチとして奮闘する鬼頭亮介さん(37)と、兵庫県宝塚市に住む父・信男さん(65)、母・潤子さん(62)をつなぐ。大学卒業後はIT企業に就職したが、大好きだった水泳に関わる仕事をしたいと、わずか2年で退職し、コーチを目指して渡豪した亮介さん。母は「反対しました。まったくあてもないところでコーチの勉強など到底出来るわけはないと。目を覚ましなさいという気持ちでしたね」、父も「1,2年で帰ってくると思っていた」と振り返る。
亮介さんが働くのは、これまで多くのオリンピック代表選手を輩出してきた名門スイミングクラブ。現在もトップ選手の中には次回2016年のリオデジャネイロ五輪を目指す逸材がずらり。亮介さんが教えているのはそんな予備軍である小学校高学年中心のブロンズクラスだ。彼はこのクラスのヘッドコーチを務める。「オーストラリアのジャージを着てオリンピックの舞台で自分の選手たちと一緒に戦いたい。それが2020年の東京オリンピックになると良いですね。一番大事なクラスだと思っています」と亮介さんはいう。
亮介さん自身も5歳から水泳を始め、高校まで打ち込んだが、選手としては平凡な成績しか残せなかった。大学卒業後はIT企業に就職したが、1日中パソコンに向き合う仕事に嫌気がさし、大好きだった水泳に関わる仕事をしたいと、わずか2年で退職した。「周りから見たら安定した仕事だったかも知れないけど、僕の心が安定しなかった。そこは譲れなかった」と亮介さんは当時の心境を語る。
「どうせやるならトップを目指したい」。コーチを目指してオーストラリアに渡ったものの、選手としてもコーチとしても実績はゼロ。英語すら話せないという無謀な挑戦で、何軒ものクラブに断わられた後、現在のクラブに雇われた。当時のオーナーは「水泳を教えるのに言葉は重要ではない。彼の情熱があれば出来ると思った」という。まさにゼロからのスタートで、最初の5年間はほぼ休みもなく、雑用はもちろん、経験を積むために給料の出ない仕事も進んで引き受けた。そんな努力の甲斐あって、05年にはブロンズクラスのヘッドコーチに就任。その情熱とオリジナリティあふれる指導で、このクラスを州の選手権3連覇に導くまでになった。
家族は妻・華苗さん(32)と3人の子どもたち。今は家庭も仕事も充実した日々を送る亮介さんだが、日本での安定した生活を捨てる決断を、母には最後まで認めてもらえなかったという。「認めてもらえるまでは時間がかかりましたね。まだまだ、成功するまでこっちでとことんやるつもりです」と亮介さん。目指すはオリンピックコーチだ。「ジュニアを教えるのも楽しいですが、やる限りは高いところを目指したい。やはりトップチームを持ちたいですね」。
日本を飛び出して13年。「オーストラリアのトップになる=オリンピックで十分活躍できるレベルだということ。子どもたちにその意識づけをしてあげるのが僕の仕事。最終目標は彼らと一緒にオリンピックに行くこと」と語る亮介さん。オリンピックコーチという夢に向かって挑戦し続ける亮介さんに、日本の両親から届けられたのは母特製の粕汁。そのレシピと共に、「オリンピックコーチになるまで日本に帰らせないよ!」という叱咤激励のメッセージが添えられていた。その言葉に亮介さんは涙をこぼし、「オリンピックに行きます!」と固く誓うのだった。