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#1914月15日(日)10:25~放送
イタリア/ローマ

 今回の配達先はイタリア・ローマ。40歳で海を渡り、オペラ歌手として夢を追い続ける平井富司子さんと、兵庫・芦屋に住む母・民子さん、弟・幸司さんをつなぐ。難病指定されている肝臓疾患を患い、闘病を続けながら活動する富司子さん。母は「健康が一番心配」といい、弟は「イタリアに渡ると聞いたときは驚いたが、頑張って欲しい」と見守っている。

 映画「ローマの休日」の撮影にも使われた築500年のアパートに暮らす富司子さんの部屋には、9年前に亡くなった父の写真が飾られている。「私が生まれるとすぐにピアノを買ってくれました。将来はピアニストか作曲家にしたかったみたいです。父の夢の通りにはいきませんでしたが…父が私をこの道に進むように導いてくれたんです」と富司子さんはいう。

 教会で行われるコンサートに向かう途中、せわしなく電話をしている富司子さん。聞くと、2日後に行われる「蝶々夫人」の舞台で共演予定だったテノール歌手がドタキャンしたのだという。それで富司子さん自ら代役探しに奔走しているのだ。「ドタキャンは結構あります。でもそのおかげでチャンスもあるんです。私の“蝶々夫人”のデビューも、ドタキャンしてくれたソプラノがいたおかげでした」。

 音大の声楽科を卒業後、さまざまな仕事を転々としていたが、30歳の時「人生を歌にかけたい」と歌を本格的に再開。日本でオペラ歌手として活動を続け、40歳で本場イタリアへ渡った。夢は大きな劇場で主役を張ること。だがイタリアは景気の低迷が続き、多くの劇場が閉鎖に追い込まれている。そのため富司子さんは教会や病院でコンサートをしたり、市が主催する小さなオペラ公演などの舞台に立つ。予算が少ないため、自ら演出を行ったり、小道具などは手作り、メークも着付けも自前ということもあるという。

 イタリアに来た当初は苦労の連続だったという富司子さん。「日本人とイタリア人の感情表現はまったく違います。日本でキャリアもそれなりにありましたが、最初は笑われました。“蝶々夫人をやる”と言ったら“日本人だからやれるのよね”という言い方をされて…。でもそこで負けたくはなかった。日本人だからやれるんじゃなく、日本人だからこそやるべきだと」。

 以来、イタリアで地道にレッスンを積んで一つ一つの舞台を大切に歌い、夢を追い続ける富司子さん。悩みは病気にともなう体力的な問題。「やっと自分の歌いたいものが歌えるようになってきたので、ここからどんどん前に出て行きたい。無理は出来ないけど、走りたいんです」。富司子さんの歌への情熱はますます膨らむ。

 心配する母に対しては「昔は性格が合わず、なかなか母を理解できなかった」という。福井で深夜営業の食堂を営み、70過ぎまで忙しく働き続けた母とは、あまり一緒に過ごすことができなかったのだ。「母が大病をして手術をしたとき、母への想いが変りました。母の人生は家族のためだったのだと気づいたんです。じゃあ私達は母に何をしてあげたのだろうかと…」

 そんな母から届けられたのは、母が大切に着ていた洋服。“いつも私がそばにいると思って着て欲しい”という想いが込められていた。富司子さんは「授業参観など、母が事あるごとに着ていた服です。母は自分のものは買わないで、いつも私達のものを買ってくれました」と振り返り、「私が活躍することが母の夢でもあると思います」と、力尽きるまで走り続ける覚悟を語るのだった。