今回の配達先はアメリカ・ヒューストン。自転車の“フレームビルダー”として奮闘する案浦攻さん(45)と、福岡県に住む父・正嗣さん(75)、母・洋子さん(70)をつなぐ。日本ではトップクラスの競輪選手として活躍していた攻さんは40歳の時、愛する家族のために引退を決意。すべてのキャリアを捨て、妻の母国・アメリカに渡った。両親は「引退後はどうするのか心配しましたが、25年間自転車と関わってきたので、フレームを作る仕事なら力を発揮出来ると思う」と、第2の人生を応援している。
正嗣さんがヒューストンの自宅兼作業場で製作しているのは、ロードレース用などの自転車のフレーム部分。お客さんからパイプの太さや材質など細かな要望を聞いた上で体を採寸し、もっとも効率よくこげるフォームになるよう、背中の角度や膝の出具合など20カ所近くチェックして設計図を作成する。製作はすべてハンドメイドで、設計図を元にスチールのパイプをカットし、各パーツを溶接して組み立てていく。ミリ単位の誤差が自転車のスピードを大きく左右するだけに、競輪選手だった経験と勘が大きく生かされているという。
小さい頃から自転車に魅了され、両親を5年がかりで説得して、高校入学の時にようやく念願の競技自転車を買ってもらったという攻さん。高校、大学と自転車漬けの日々で、23歳でついにプロの競輪選手となり、最高峰のS1クラスまで登り詰めた。だが、プロ生活17年、通算230勝という脂の乗っていた40歳の時、突然の引退。日本での子育てに疲れた妻・スーザンさん(40)を気遣い、彼女の故郷・ヒューストンに移住する決意をしたのだ。「辞めたくはなかったけど、余力を残して辞めないと次に踏み出せないだろうと思っていた」と攻さん。それでも、競輪一筋だった攻さんは当初、なかなか思うような仕事に就けなかったという。さまざまな仕事を経て、ようやく巡り会えたのが自分の経験を生かせる“フレームビルダー”の仕事だった。父がガラス屋を営んでいたこともあり、小さい頃から家にあった工具には興味があったという攻さん。中学とき、誕生日プレゼントに父からもらった工具は、今でも使っているそうで「あの時買ってもらってなかったら、今こういう仕事をやってないかも知れない」と話す。
その丁寧な仕事ぶりで徐々に注文は増えてはいるものの、まだまだビルダーだけで家族を養うのは難しく、身重の妻が共働きで家計を支える。夢は「自分もかつてビルダーと共に楽しんでフレームを作ってきたように、お客さんと喜びを共有できるようなブランドにすること」。フレームビルダーの仕事を始めて3年。今もステップアップのために溶接学校に通い、新しい溶接技術を学ぶなど、試行錯誤の連続だという。
そんな攻さんに両親から届けられたのは、攻さんが初めて買ってもらった競技自転車のフレーム。競輪選手になる夢に向かい、がむしゃらに走っていた頃の情熱を忘れず、新たな夢に向かって進んでほしいという、両親の想いが込められていた。攻さんは「ありがたいです。大きなチャレンジの時には優しく見守ってくれ、何かあった時には助けてくれた。父は“俺には返さなくていいから、自分の子供たちに同じ事をしてやれ”と。父の意志をしっかり受け継いでいきたい」と、懐かしいフレームを見つめながら、しみじみと語るのだった。