続・男の花道…会見全文 ( プロ野球 )
1つの時代が幕を降ろした…清原選手引退…
少々長くなりますが、新聞などで見聞きしたいない方へ、
セレモニーのあとに行われた記者会見で、清原選手が発した内容を掲載させて頂きます。
小学校3年(9歳)の時から野球を始めて、野球をやっててよかったと思っています。
そして、最後の試合が王監督のホークスなのに運命的なものを感じます。
王監督から試合前に頂いた言葉は一生忘れることはありません。
『来世、生まれ変わったら必ず同じチームでHR競争しような。同じチームでやろう』
<cf ドラフトで意中の王巨人から指名されなかった。指名は桑田>
23年前のドラフトの件があっただけに、王さんから頂いた言葉に感謝の気持ちでいっぱいです。
ホークスの杉内投手には投げづらくさせてしまいました。
王さんのラストシーズンでもあるし、チームの勝利もある中での全球ストレート勝負に感謝したいです。
杉内投手のストレートに空振りし「あっ終わった…」と自分自身納得できました。
今日の打席では、中途半端はやめよう…と、全打席同じ気持ちで立ちました。
2ベースでも三振でもホームランでも…
最後の最後まで自分らしいスイングしたいと思っていました。
それがファンの皆様が求めているものですから…
杉内投手が全球ストレート勝負してくれて気持ちいい打席を最後に迎えられてよかったです。
これまでの思い出はたくさんあっり過ぎてわかりません。
最後にたくさんの方に見送られての引退できて幸せです。
西武時代には日本一に何度もなれていい思い出ばかり。
巨人では苦しい思いばかりでしたが、巨人ファンの大声援が癒してくれました。
オリックスで仰木さんが拾ってくれなかったら、僕の野球人生‘恨み’しか残りませんでした。
感謝することを教えてもらいました。だからこのユニフォームで引退したんだと思います。
オリックスではあまり活躍できず苦しかったですが、
ファンの声援がどんな痛み止めの注射より痛みをなくしてくれました。
大阪・Bsファン・対戦してきた他のチームのファンにも感謝しています。
今年は北海道・仙台・千葉・埼玉・福岡…どこに行っても声援をもらいました。
ひざが痛くて辞めたくなった時もありましたが、グラウンドに立てば声援や拍手を頂き、
心技体すべてを無くしなくしかかった時、‘心’だけが皮一枚残りました。
ずっと幕の引き方を考えていました。
仰木さん言う‘花道’が何なのか?3年間見つめてきました。
一度、昨オフに考えていましたが、まだ恩返ししていなかったので…
ひざの軟骨移植手術は日米通じて(成功した)前例がないので、
だからそのことに挑戦したかったのです。
医者からは「前例がないから0でも100でもない」と言われました。
正直ケガの内容を聞かされた時は‘終わった’と思いましたが、
だからこのケガと戦うんだ、グラウンドに立つことが僕の闘いでした。
そしてグラウンドに戻ることができました。
仰木さんも(病気との)闘いがありました。
僕も…が心の支えでした。
仰木さんなら何て言ってくれるかな…きっと笑顔で
『キヨよかったやろ…大阪へ来てよかったやろ…俺が言ってたこと合ってたやろ…』って言ってくれると思います。
ケガと闘うと決めた時には、グラウンドに立つために闘うと決めました。
決してベンチに座るためじゃないと…
チーム状態が上向きの中、心の葛藤がありました。
チームに貢献する打撃ができなかったけれど、負け続けていたチームをAクラスにできました。
1軍に復帰した時、チームはキャンプ時よりも練習量が増えていました。
チームが変わろうとしているんだと、見ていて感じました。
でも、復帰はしたけど、(自分は)戦力になっていないと感じました。
西武が優勝したのは事実です…
CSは短期決戦、一瞬のスキで‘やる’か‘やられる’世界です。
僕がベンチに座るより、
1つその椅子が空くことによって若い選手に本当に厳しい戦いを知って欲しい思いがあります。
結局何もできなかったけれど、引退の年にチームがCSへ行けて本当にうれしい。
チームメイトのローズが心の支えでし。一緒にCS行こうって言ってくれましたが、
僕の足は限界だし、心も燃え尽きました。
今まで数々の投手と対戦してきましたが、ケガする前の松坂投手との対戦…4打数4三振…すべて直球でかすりもしませんでした。
3年前でしたっけ?衝撃を受けました。
高校卒業してプロに入って、プロでやっていけるか…
18歳まで大阪にいて、埼玉がどこにあるのかもわからなかったくらいですから…
不安だらけのプロ人生が始まった中、やはり最初のホームランが一番思い出深いです。
無冠の帝王って言われますが、それは仰木さんが気遣ってくれた言葉です。
優勝してもタイトル獲る選手はたくさんいます。
それが獲れなかったんだから力不足だったと言うことです。
チームのためでしたってのは言い訳です。
ただ、振り返ってみていつ獲ったタイトルかわからないよりも、
最多三振と最多死球、最多サヨナラホームランの記録が誇りです。
一番三振したバッターであり、一番デッドボール受けたバッターあり、
一番サヨナラホームランを打ったバッターだということですから。
タイトルは獲りたかったですが、8度も日本一になったのに、それ以上望んだらバチが当たります。
僕がケガして野球が出来なかった時は子供も野球をしたがらなかったけど、
ユニフォームを着たらキャッチボールをせがんできました。
悔いが残るとすれば‘息子たちにもう1本ホームラン’を打ちたかったことが唯一の心残りです。
仰木さんから誘われなかったらイチローとの出会いもありませんでした。
彼も大変なシーズンを終えた直後に来てくれました。これも仰木さんのおかげです。
金本選手とは10年以上の付き合いになります。でも広島時代も今も変わっていません。
ケガしたと言えば治療院を紹介してくれたり、巨人時代には、宿舎へ入ってくればいいのに、ファンの中に混じって待ってくれてた姿もありました。
‘とんぼ’は僕の野球人生を表す歌です。
長渕さんは何度も折れそうになる心を励ましてくれました。
そして今日、最後の最後に魂を鎮める歌を歌ってくれました。
感謝の言葉しか出てきません。
僕の野球人生は中間がなく、良いか悪いかでした。
色々な思い・悲しみ・苦しみ…でも最後は1人の力ではダメでした。
本屋敷コーチと熊谷広報は1年間休むことなく働いてくれました。
この2人の支えがなければこの日は迎えられませんでした。
振り返ってみて、最後に答えが出ました。
『感謝』することを学びました。
リハビリ時は、1ヶ月前を振り返れば進んでいることでも、日々では進んでいるとはわかりません。
絶望感からの始まりでしたが、本屋敷コーチは根気強く声をかけてくれました。
もしも1人だったら投げ出していたはずです。
どんなにしんどくても、あいつが待っているから…って気になれました。
これから、同じような立場の選手にはこの体験談を話せますし、
同じ痛みをわかってあげられる人間になれたと思います。
23年間の野球人生で、この1年が精神的にも肉体的にも一番苦しいシーズンでした。
これが最後に与えられた闘いなんだと自覚してやってきましたが、本当に長くて苦しくてつらかったです。
でも、自分はこの勝負に勝つんだ、グラウンドに立つんだって決めたのです。
そして、最後にたくさんのファンに見送ってもらえました。
(ドラフトで)泣いて始まって、最後も泣きましたが、この2つの涙の質は違います。
桑田が巨人を去って海外へ挑戦して、僕がリハビリ中に衝撃的なケガのニュースが飛び込んできました。
日本とアメリカと距離は遠いけど、なぜか巨人時代よりも心が近く感じました。
巨人のユニフォームを着ている時よりも、高校時代のKKに戻れた気がしました。
だから桑田の引退を聞いて、ポッカリ穴が空きました。
自分の心の中に‘桑田’がいたんだとわかり、リハビリを3日間休んだほどです。
でも、ケガと闘うと決めた以上、1軍へ上がる前に桑田の球を打ちたい、そうじゃないと上がれない…
ケガをしたスカイマーク30数球でしたが、激痛が走ったあの打席に何のためらいもなく入れたのは、マウンドに桑田がいたからです。
桑田の存在は僕の中で大きかった。同じ年で引退するのにも運命を感じます。
今日は僕の前には来ませんでしたが、今日の姿を見せられてよかったです。
(先に引退した桑田と)やっと同じ気持ちになれたわって言いたいです。
今は23年間酷使してきた体を休ませてあげたい。
まずは日常生活を取り戻すことから始めたい。
(この先の)夢はありますが、今は休みたいです…
(拍手で会見が終わろうとした時、最後に自ら…)
これまでマスコミの皆さんには色々悪態をついてきた事もありました。
僕は弱い人間だと自覚し、それを守ろうとしていました。
良いことも悪いことも書かれたり言われたりしましたが、23年間取り上げて頂き、こんな幸せなことはありませんでした。
これまでありがとうございました。
長々とお付き合いして頂き、ありがとうございました。
わかりやすく伝えるために、語尾の使い方や話した順番等、
多少変えましたが、内容に一切の偽りはありません。
偉大なために誤解されやすかった清原選手。
四半世紀に渡って1つの時代を築いたスーパースターの‘辞世の句’をお伝えすることで、
彼の功績や偉大さをわかって頂ける気がしました。
PL学園1年生の夏(15歳)から始まったスーパースター伝説…
41歳になり、髪の毛やヒゲに白いものが増えた清原選手は、
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第2章は始まったばかりです。