徒然なる「追認」の罪深さ…
原発問題。
最初1の権威しかなかったものは、100回追認されれば、100の権威を持つようになる。
まさに原子力ムラの追認に次ぐ追認によって、
実体は1なのに、100の権威を持つに至ったのが、「安全神話」。
「追認」というのは、本当に罪深い。追認する学者は、本当に無責任だ。
追認するのは、学者だけではない。
政治家も、ほとんど何の考えもなく、無責任に「追認」のはんこを押す。
メディアも決して例外ではない。追認に加担してきた。
学者、政治家、メディアによって、順繰りに「追認」を繰り返され、
実体の100倍も200倍もの「権威」と「信頼性」を持つに至った「原発」。
しかし、その実体は、信頼性が1だった頃と何ら変わらないのだから、
事故が起こるのは、実は必然だった。
むしろ今までおこっていなかったことが幸運だった。
私は、
大阪府の槇尾川ダム問題を取材しているとき、
「追認」のいい加減さと、そのいい加減さと反比例して高まる「信頼性」「権威」…というプロセスを、
目の当たりにした。
「追認」を重ねる学者たちは、本当に、いい加減で、無責任極まりなかった。
いわゆる「御用学者」である。
役人の立場になれば、「御用学者」を「委員」にさえしてしまえば、こっちのものである。
世の中は、名うての国立大学の教授という肩書きがあれば、
よもやそんなに「いい加減」で「無責任」だとは、思わない。
ところがその実態は、これ以上ない「いい加減」と「無責任」。
いい加減な肩書きであれば、世間は「いい加減なヤツ」とハナから思ってかかるから、
実は別に、問題は生じない。
本当はいい加減で無責任なのに、世間が「立派」で「責任感ある」ハズ、と思い込む局面に、
とんでもない大事故につながる種が、生まれる。。
3・11の直後、
甘すぎた津波の想定など、もろもろの現実に直面したときに、
橋下知事が
「ダム問題と一緒」とつぶやいた。
私には、その意味が、とてもよく分かった。
私も同じことを、感じたからだ。
高学歴で理系の役人達は、
本当に、想像も出来ないようないい加減な「理屈」を、平然と、提示する。
ちょっと学のある人間が真剣に読み込めば、
あり得ないような馬鹿げた理屈を、
平気で提示するのだ。
彼らは
一般の人が、「数字が苦手」なことをよく知っている。
圧倒的に小難しい数字を、羅列・オンパレードで、
一般の人たちを、煙に巻くのだ。
第三者・市民代表との触れ込みで委員会に参加した
多くの「市民派」委員たちも、
大抵、この攻撃に、やられる。
彼らは、「わからない」「もっと分かりやすく説明してくれ」と言わせないように、
雰囲気を作る。
「分からない」ということが恥ずかしい雰囲気作りだ。
市民派、市民感覚が売りの第三者委員は、大抵、これでやられる。
人間、「あの人、分かってないんだ」と思われるのは、誰しも、いやなものだ。
役人の小難しい数字の羅列に対し、
「説明が分かりづらい。もっと分かりやすく説明してくれ」
というのは、とても勇気がいることだ。
「王様は裸です」ということと同じなのだが、
それがいえないのが、「ある程度の地位に上り詰めた」オトナというものだ。
学者というのは、知識と理屈に長けている。
たいていの学者は、「この結論で、正しい」という結論を出してくれ!というミッションに対して、こたえる術を、持ち合わせている。
御用学者になることを恥だと思わなければ、どの学者も、御用学者になるのは、簡単なことだ。
国や都道府県の委員会の「有識者委員」を務めることは、
世間体的には、百利あって一害なしだ。
学者としての「権威」「ポジション」も上がるし、小金も入る。知名度も上がる。
真剣に討議に参加し、役人に異を唱えるより、よっぽど、御用学者になるほうが、賢い生き方なのだ。
先だって、「同じ構図」と申し上げたが、
「ダム」は、「原発」に比べれば、かわいいものだ。
「環境」が悪くなって、「自然」を破壊して、無駄なお金を湯水のように使うだけだ。
原発は、それでは済まない。破壊するのは、「自然」どころか、人間そのものだ。