◆ことばの話2320「幸田 文『流れる』を読んで」
昭和30年(1955年)、今からちょうど50年前に書かれた幸田 文の小説『流れる』。とても気になる表現がいっぱいだったので、書き抜いてみました。
・「焚き口へ出るには是非とも四畳半を通りぬけて、雨戸のそと畳一畳ほどの空地へ降りなければならない。」〜『是非とも』の使い方。
・「星が白く高く、夜はすぐそこ、隣の物干しに残ったパンテイへまで低く降りてゐた。」〜『パンテイ』ってその頃もう使われていたんですね。
・「返辞のしやうもない」「折りかへしご返辞するわ。」〜『返事』ではない。
・「一トき」「二タ通り」「一トしきり」「一ト足の近ま」「一ト晩」〜カタカナの使い方。
・「主人はぞろりとしたまヽで酒の燗をしてゐ、ごはんのしたくを云いつけた。」〜『ぞろり』という擬態語。『新明解国語辞典』を引くと、「ぞろり」=(2)長い衣服をひきずるように無造作に着る様子。(特に重たげな高価な着物をさり気なく着こなしている様子に言う。)(例)「錦紗(キンシャ)の柔らかなものをぞろりと着て」
・「お座敷著(おざしきぎ)」、「不断著(ふだんぎ)」〜「著」と書いて「着」のこと。
・「本甲らしいカルメンのやうな大きな櫛がさヽってゐる」〜ほんかふ(ほんこう)。本物の鼈甲のことか?
・「まだ目見えだから取捨はおたがひに自由だ。」〜「目見え」というのは、「見習い」の意味のようです。「お目見え」の「目見え」。
・「猫さがしといふことが気もちをしかませてゐる。」〜「しかませる」と言うのは耳にしたことがないが「顔をしかめる」「しかめっつら」の「しかめる」と関係あるのかな?
・「遠く自動車のクラクソンが聞える」〜クラクソン=クラクションのことか。
・「茶格子のキロッドを穿いた紳士ふうの人が主人だった。」〜「キロッド」って何?「キュロット」かな???
・「なんとかケンネルとハイカラな名がついてゐ、」「およそ地面は完全に隅々まで活用されきつてゐ、」「今夜の勝代には若さが哀しく光ってゐ、それが梨花を茶の間にひきとめてゐた。」=「ゐ」でつなぐ連用形
・「片頬(かたほ)笑ひ」=「頬」と書いて「ほ」。
・「一ト眼げぢげち草履をみるなり、はヽあと呑みこんだ眼まぜをする。」=「げぢげぢ」という擬態語?「しげしげ」は知ってるが。「眼まぜ」って何?→『新明解国語辞典』によると、「目配せ」のことらしい。あ、そうか「げぢげぢ草履」かな?萩原アナによると、「大きな草履のことではないか」と。どうなんでしょうか?
・「この家(や)の出口が」〜「家」と書いて「や」。
・「ゐなかの児にめづらしく骨細(ほねぼそ)で」〜「骨太」ではなく「骨細」。
・「葬式とは気楽にみえばりことのできるものだ。」=「みえばり(見え張り)」。
・「病気の子もかまひつけないで、南京豆を噛みー―じだらくにゐる。」〜「じだらくにゐる」という表現。
・「はり柾・本柾」=柾目を薄くはがして貼り付けたものが「はり柾」、本物が「本柾」であろう。
・「しろとしろとしたタイプ」=「素人、素人したタイプ」
・「堺」〜「境」の意味で使ってる。また、芸者の試験の様子は、アナウンサー試験を思い浮かべて興味深い。
・「私はね、芸者が耳のうしろを磨かなくなったときから、しろうとに押されはじめたやうな気がしてしやうがない。」・・・ふーん、そういうものか。
・「計算違へをしたのかもしれない。」〜「計算違ひ」ではなく「計算違へ」。
・「うどん玉一ツ八円、葱二円。メンチカツ一枚十円、コロッケなら二ツで十円」〜当時(昭和30年)の物価がわかる。
・「つめたいコロッケは脂臭く葱臭くざつかない味がするけれど、」〜「ざっかない」。どんな意味なんだろう?否定的な意味のようだが・・・。
・「紅い林檎を白く剥いて煮ると」〜この色の表現は、すばらしい!病人(子ども)に食べさせるリンゴです。
・「この町は一ツ単位の買い物で成り立っている。」〜つまり独り者の芸者で構成された町だということ。当時としては、家族単位でないのは異端だろうが、今から見ると先進的。「個食」が成り立っていたということ。
・「さうあちこち気が煎れるようぢゃ勝てないよ」〜「気が煎れる」という表現。
・「お摘みは酒のつけたりでいゝはずである。」〜「つけたし」ではなく「つけたり」。
・「洗湯」=「銭湯」ではなく。本来の意味に近いか?
・「不二子はほんとに骨ばかりに痩せてゐて、手頸など気味わるいほどだが、顔は鳶鷹(とんたか)で、」〜「鳶(トンビ)が鷹(タカ)を産む」の省略形として「とんたか」って言ったんですかねえ。
・「さうもしず」〜「せず」ではなく。
・「不潔だとおもふ。こんな櫓下のあらゆるごみの詰つてるところを、剥きだしでたべものの受けわたしをする!」〜この小説で「!」は初めて見た。珍しいと思ったが、その後に数回出てきた。179ページには「それがこんなわなにかけたりかけられたりする!」。
・「借金の催促にへぐへぐさせられて、」〜「へぐへぐ」という擬態語。この後にも出てくる。「借金と老いらくの恋でへぐへぐになつてゐる染香と、」
・「おそらく灸所々々へ水を廻しておいて、うゝもすうもなく鋤きかへしちまふやうなことを指すのだらうが、」〜「鋤かへす」という言葉。「ううもすうもなく」は、「うんもすんもなく」と同じかな。
・「口、口、口が曲がってゐる!」〜畳み掛けるこの表現の力強さ!
・「あたしハワイに行くの、五月になつたら誘ふから行かふつて。もち、飛行機だわ。」〜「もち」は、もち、「もちろん」の意。
・「主人も勝代もさうえごくいやな人に思へないし、」〜「えごく」。「ひどく」「すごく」という意味か?静岡出身の萩原アナウンサーによると、「えごみ」「味がえごいなあ」と、雑味があったり、ガサガサしたりすることを言うそうな。
・「おかあちゃんはもうとぼとぼしちゃつてだめ。かはいさうに。」〜「とぼとぼしちゃって」と言うのもちょっとおもしろい表現。
・「三人のスタッカットのような短いやりとりが交(かは)された。」〜「スタッカット」。「スタッカート」ではなく。
・「勝代は一本の木みたやうな姿勢、」〜「木みたやうな」。「木みたいな」と現代なら言う、よね。
・「身じんまくは自分でおしつて云ふんだ。」〜「身じんまく」。『広辞苑』に載っていました。「身慎莫」と書く。「身仕舞」(ミジマイ)と「身支度」(ミジタク)の混交によるものか、とあります。意味は(1)身の回りを引き締めととのえること(2)金銭などを隠して蓄えること。へそくり。とありました。『浮世風呂』から用例が。
・「総タイルでステインレスで大冷蔵庫で、」〜「ステインレス」。「ステンレス」ではなく。当時もあったんだ。
・「なんどりとやらなくつちゃいけないつて」〜「なんどり」。「なんなり」の意味か。
・「対手にしやべらせることができる口まへを持つてることなのよ。」〜「対手」=「あいて」。「口まえ」=ものの言い方。話しぶり。(『広辞苑』)
・「あらいやですよお、もう大丈夫ですよ。まさかとちりゃしません。」=染香の言葉。三味線について。「とちる」って言うんですね。
・「染香はおもしろづくでしやかしやか云ふが、」〜「しゃかしゃか」という擬音語。
・「手鏡を取って自分の顔をと見かふ見、ものを云はない。」〜「とみこうみ」=(トミカクミの音便)あちらを見たり、こちらを見たり。(『広辞苑』)
・「黒らくだのスカーツ、黄いろいスウェターと著てから」〜「スカート」ではなく「スカーツ」と複数形。
・「染香といふ女は実にちやらつぽこで不誠実だ。」〜「ちゃらっぽこ」=でたらめ。うそ。また、でまかせを言う人。ちゃら。用例はまた『浮世風呂』から。(『広辞苑』)
・「いゝ齢してつまらない男にぴちやぴちやするから、霜枯れたことになつてるとこきおろす。」〜「ぴちゃぴちゃする」「霜枯れたことに」という表現。
・「お祝儀」=「お祝儀」ではなく「ご祝儀」ではなく。
・「うちのおかあちやんはもうなんて云つても齢だから、くだり坂でお座敷はへるばかり、芸者はいくら芸がよくても死ぬまで売れる人はないんだから、あたしにも考へろつてねえ、そ云つたわね。」〜考えさせられます・・・。
・「一人余計ならそれだけこぐらかりが多い。」〜「こぐらかり」=「こんがらがり」。「一人余計」とは不二子という瘤つきのこと。
・「めいめいは慌てゝ剥きだしの心へ著物をかける。」=いい表現!
・「ざつぱくない起き方」〜「ざつぱくない」。なんだろう???
・「主人はわたわたととりとめなく思ひ乱れてゐるやうすだった。」〜「わたわたと」=「あたふたと」「おたおたと」の意か。
・「意地の張りあひひぞりあひをして、」〜「ひぞりあひ」。「ひぞり」は「乾反り」「干反り」と書いて、(1)乾いて反り返ること。また、そのもの。(2)すねて怒ること。意地悪く言うこと、とありました。(『広辞苑』)
・「清元の節廻しは梨花の腑に落ちて行つた。」〜「腑に落ちる」の用例。
・「対にさゝせた総桑の大きな茶箪笥ど瓶かけ、食卓、それらをHがたに置いた茶の間、」〜Hがた。アルファベットを使ってる。「総桑」の反対は「張桑」。「はり柾」を思い出させる。見栄の張り合い。
・「ぞんきなデパート家具だから狂ひが来てゐるが、」〜「ぞんき」=無愛想なこと。おもいやりのないこと。(『広辞苑』)これも用例は『浮世風呂』。
・「主人もはふつておけないから文句を云ふ。」=「ほおっておけない」の旧仮名遣い?
・「申しわけないと思ふから下手(したで)に出れば、いゝ気になつて底なしな云ひかたをする。」〜「したで」と濁っている。「底なしな」。「底なしの」ではなく。
・「弥縫策」=「びほうさく」。「弥縫」の「弥」は「満」で完全にするの意で、「(失敗・欠点をとりつくろって)一時的に間に合わせること。びぼう。」
・「ぞわつき、」〜「ざわつき」か?
・「梨花はもちろん見に行かれない。」〜「見に行けない」ではなく「行かれない」。
・「想像といふ大きなテレヴィジョンがどこの家にも備へられて、めいめいの送りだした選手が伊達ややつしに扮装して技を演じてゐるのを、気づかひながら想つてゐる。」〜「テレヴィジョン」。昭和30年の時点でのテレビのとらえられ方。その2年前にテレビ放送は始まったばかり。
・「やつし」=「やつしがた」の略。歌舞伎でやつし事を演ずる役柄。また、それを得意とする俳優、と『広辞苑』には書いてあるが、「やつし事」とは、「歌舞伎で、仔細あって身を落とした身分である人物や金持ちの息子などが、いやしい姿でする演技。またその劇」。「身をやつす」の「やつす」から来ているのか。大阪弁だと「やつし」は「ええかっこしい」のことだと思ってた。『大阪ことば事典』を引くと「おめかしや。もと、歌舞伎で、遊冶郎(ゆうやろう)や美男子など、色めかしい役に扮する者の称」とありました。ちょっと標準語と意味が違いますね。歌舞伎から出た言葉であるのは同じですけど。
・「老人斑が一ツ二ツ茶色にざどつてゐる。」〜「ざどる」は「座取る」か?『広辞苑』に載っていました!「座取る」=「腫物などの周囲が、ふくらんで赤くなる。」ですって。知らなかった!
・「追憶の遠々しさ」→なんと読む?『広辞苑』に「とおどおしい」が載っていました。甚だ遠い、ひどく疎遠である、の意。
・「心ゆかせの時間」=いい表現だなあ。「心ゆかせ」。『広辞苑』には「心ゆかし」として載っていました。「気ばらし」「心やり」。いいですねえ、「心ゆかし(せ)」。
*そして、全集に収録されていた『蜜柑の花まで』という随筆からは、
・「不粋」=「ぶいき」とルビが。「ぶすい」ではなく。
*『結ぶこと』という随筆からは、
・「めう眼もひどく薄くなつてきてゐるから、生きてゐるうちの見える時間は有効に使ひたい」〜「眼が薄くなる」という表現。今時は、あまり聞かない。
・「要品(えうほん)を買はせ、毎朝叔母の供養に自分で読むのだが」〜「要品」ってなんだろう?
・本を読んでわかるというのは?露伴曰く「氷の張るやうなものだ」一ツの知識がつつと水の上へ直線の手を伸ばす、その直線の手からは又も一人ツの知識の直線が派生する、派生は派生をふやす、そして近い直線の先端と先端とはあるとき急に牽きあひ伸びあつて結合する。すると直線の環に囲まれた内側の水面には薄氷が行きわたる。それが「わかる」といふことだと云ふ。(中略)そして又、これが父の「本の読みかた」のある一部だとおもつてゐるのである。〜これは実感としてよくわかる気がします。
*『余白』という随筆から
・「私はそれ(=姿見)を持つて嫁入つたが、」〜「嫁入つた」という表現。
・「このぶまな鏡でなくては写し納めてくれないと知つてゐたから、」〜「ぶま」=不間。まのぬけたこと。気のきかないこと。へま。まぬけ。
・「荷厄介」〜『広辞苑』では(1)持った荷物が面倒になること(2)自分の負担としてもてあますこと。ある物をまかせられて行動が不自由になること。
〜この『余白』という作品は、とっても良い!最後がすっきりとして良い!涙が出そうなぐらい良い!タイトルも良い!普通は『鏡』とストレートにしたくなるところを『余白』というのが奥が深い。人生の余白・・・。とにかく良い!!
*随筆『四たびの道』からは、
・「くたびれて足がぎこぎこしてゐて」〜「ぎこぎこ」という擬態語。新鮮!よくわかる。
*随筆『いじくる』からは、
・「台処さんはけさの烏賊を料(れう)る」〜「料る」。聞いたことはあったが、実際に使われているのを見るのは、おそらく初めての言葉。
・「いじくるといふ語感と生の魚や肉をつなげると、そこにはまつたく食欲は起こらない、きたなさがあるばかりである。」〜たしかにそのとおり。これについてはほかの「平成ことば事情」の項目で取り上げるつもりです。
*随筆『鱸(すずき』』から、
・「よくせき河の鱸がいゝと見えるのである。」〜「よくせき」=他に方法がなくて、やむを得ないさま。余儀なく。よくよく。(『広辞苑』)
・難しい漢字。「門構えのなかに山」。「つかえ」と読むのか?その文章は、
「何かと胸に(門+山)へてゐるものがあるしするから」
・「水はもやつた船へ挑んでゐず、船は流れくだる水へ少しもさからつてゐない。」〜「おらず」ではなく「ゐず」という表現。この『鱸』も、いい話だなあ。
以上、つらつらと、随分書き出しました。こんなにねちねちと読んでいたので、図書館からお借りしたこの本、返却が大幅に遅れてしまいましたことをおわびします。ごめんなさい。 |