◆ことばの話325「味わわせる」

「あのねー、"味わう"という言葉を、相手にさせる場合には、"味わわせる"かな?それとも"味あわせる"かな。どっちが正しいんやろ?」

20年ぐらい前に高校生だったある女性が、先日こんな質問をしてきました。

なるほど、ふだんは気にしたことないですけれど、確かに聞かれると、わからないですね。どっちでしょうか?

元の形は「味わう」ですよね。「味わい」という名詞形もあることですし。そうすると、語幹はワ行ですから、活用させると、「味わわ(ない)」「味わい(ます)」「味わう」「味わう(時)」「味わえ(ば)」「味わえ」となって、「味わわせる」が正しい。しかし、「わわ」と「わ」が二つ続いて発音しにくいために、「同音回避」で最初の「わ」から「W」が落ちて「あ」になった。それで「味あわせる」という形が出来たのではないでしょうか。

辞書を引いてみましょう。

「味あう」を新明解国語辞典で引いてみると、

「"味わう"の、誤った回帰形」

と出ています。やはり正しい形は「味わう」だった!

これに関しては、早稲田大学の飯間浩明さんがそのホームページ「ことばをめぐるひとりごと」の98年8月23日の「大江健三郎のことば」に載せています。

それによると、大江健三郎の「見る前に跳べ」(新潮文庫p193)の中の「鳥」という作品の中に、「あじあう」という言葉が出てくるそうです。

「男がそれにかまわずかれをつきとばす勢で病院の裏口らしい場所へどんどん連れこんでいったから、痛みをたっぷりあじあうひまさえないのだ。」(「鳥」1958,3)

このほか、「洪水はわが魂に及び」の中でも

「酸っぱくねばねばした胃液のようなものをあじあわせ」

という形でも使っているそうです。ただ、「味わう」の方も使っていて、

「むずがゆい感覚を、暫く味わっていた」(「他人の足」)

という形なんだそうです。

理由としては、やはり"「わわ」という重複を嫌って"ということになりそうです。

これに似たようなこととしては、「つむぐ」と「つぐむ」、「はらだたしい」と「はらただしい」など、音が入れ替わってしまうこともあるとか。「ふんいき」と「ふいんき」の類もそうでしょう。ただ、入れ替わった時に、全く別の言葉になるのか、単なる間違った形になるのかという違いはありますが。

えっ?結局「味わわせる」はどうなったっかって?

だから正しい形は「味わわせる」ですが、「味あわせる」も間違った形として定着しつつある、というところでしょうか。

随分、ややこしい文章を読むことを味わわせてしまいましたね、ゴメンナサイ。

2001/6/12
(追記)
久しぶりに書き込みますねえ、8年ぶりかあ。
夏樹静子の小説『量刑』(光文社文庫)に、
「とにかく万一にも彼女に死刑の恐怖など味わわせてはならない。」(255ページ)
というふうに「味わわせる」が出てきました。
2009/9/10


◆ことばの話324「きっと・・・かもしれません」

最近気になる表現の一つに、

「きっと、・・・・なのかもしれません」

というのがあります。私は「きっと」の後には「・・・に違いありません」と言う言葉が呼応するものだとばかり思っていたのですが。

おそらく、こういった言い回しを使う人は、「きっと・・」と話し出した時までは、その話の内容に自信があったのでしょうが、話しているうちにちょっと自信がなくなってきて、話をしめる段階では、「・・・に違いありません。」と言う自信がないものだから、

「・・・かもしれません」と逃げているのではないでしょうか。

ホラ、ご覧なさい。自信がない時は「おそらく」で始めて、「ではないでしょうか」で終わる。こうすれば、文章としてのバランスが良いんですよ。

この言い回しを見ていて思い出すのは、20年ほど前にはやった、ある歌謡曲の歌詞です。

「俺は浮気はしない・・・多分しないと思う・・・しないんじゃないかな・・・ま、ちょっと覚悟はしておけ」(さだまさし「関白宣言」)

少しコミック調のこの曲、だんだん自信がなくなってくる様子を、うまく歌い込んでいます。「きっと・・・かもしれません」を耳にするたびに、「関白宣言」を思い出しています。もしかしてこのアナウンサーは、視聴者を笑わそうとしてこういった言い回しを使っているのかな?そうだ、きっとそうに違いない!!

・・・いや、「きっとそうかもしれません。」

2001/6/12


◆ことばの話323「屋根の上のヴァィオリン弾き」

「平成ことば事情310」で「ヴェニスの商人って誰?」を書いたときに久しぶりに、「ヴェニスの商人」を読みましたが、その時にちょっと感じたのは、

「この時代は、随分ユダヤ人は虐げられていたんだなあ。」

ということ。

その想いを持ったまま、たまたま昨日(5月28日)、梅田コマ劇場で上演中(5月29日まで)の「屋根の上のヴァイオリン弾き」を観ました。主演は西田敏行。

それを観ての感想は、

「この時代(20世紀初頭)のユダヤ人に関する状態は、シェークスピアの時代(およそ300年前)と同じなんだなあ。」

ということ。

ただ、違うのは、「ヴェニスの商人」ではユダヤ人は「悪者」でしたが、「屋根の上のヴァイオリン弾き」では、ユダヤ人は「善い者」になっていたということです。もちろん作者の立場が違うのですが、そういった立場が認められるようになったということは、時代の変化といえるでしょう。

現在、イスラエルとパレスチナをめぐる状況のニュースを目にすると、依然として、ユダヤ人の置かれた状況は、100年前の「屋根の上のヴァイオリン弾き」の時代とあまり変っていないようにも思えます。

それとともに、「シェイクスピアの時代」「屋根の上のヴァイオリン弾きの時代」「今」を「近世」「近代」「現代」というふうに3つに区分できるのではないかなあ、とも考えました。それぞれの区分・境界線はあいまいですが。

それにしても現代は、一体どんな文学作品が生み出されてくるんでしょうかねぇ。

2001/5/29
(追記)

その後読んだ、堀田善衛著「時空の端ッコ」(ちくま文庫)の中に「領土なき国家」というタイトルで、イスラエル(=ユダヤ人の国家)とPLO(パレスティナ解放機構)について書いてありました。

「おそらくPLOは・・・(中略)・・・前途は多難であるにきまっているが、一地域にあって国境を特定しない、二つの独立国家・政府の存在する、そういう政治形態というものが、もし実現しうるものとすれば、それは新しい国家の在り方の一つとなり得、それはまた西欧中世時代の、ある種の国家、あるいは領域の在り方にも似たものになるのであろうか。西欧中世の国家領域の境界もまことに曖昧なものであった。」

そしてその文章の結びは、

「私はこう書きながら、日本国にきわめて近く隣接している地域のことも、ちらちらと念頭をかすめるのを覚える」

ふーん、なるほど。ちなみにこの文章が書かれたのは、1989年の2月です。それから12年、エトがひと回りしましたが、状況は変っていないようです。

2001/6/8


◆ことばの話322「代理母」

5月下旬、不妊夫婦の体外受精卵を、妻の妹の子宮に移植する国内初の代理出産で子どもが生まれていたことが明らかになりました。

代理出産を実施した根津八紘医師は、テレビのインタビューで「代理母」のことを「だいりぼ」と言っていました。

このニュースの中で「代理母」(だいりはは・だいりぼ)という言葉と、「代理出産」という言葉が出てきますが、意味はどう違うのでしょうか?

それについて、毎日新聞のコラム「校閲インサイド」(5月29日)に、「代理母出産〜何を"代理"したのか」というタイトルで書かれていました。

それによると、毎日新聞など2紙が「代理母出産」、他の4紙(読売など)が「代理出産」という用語を使ったそうです。そして、

1.妻の卵子を使うことができないため、夫の精子を使って、妻以外の女性に人工受精し、その女性に出産してもらうのが「代理母による出産」

2.妻が出産をできないため、夫の精子で体外受精した妻の卵子を、別の女性の子宮に移し、出産してもらうのが「代理出産」「借り腹」

だそうです。

そして、両者の総称を「代理母」「代理出産」「代理懐妊」などと何種類かの表現を使っているそうです。どうりでわかりにくいはずだ。この中で「借り腹」は「品が良くない」として、毎日新聞は使わないみたいです。

いずれにせよ、この問題はいろいろな問題を(文字どおり)はらんでいて、一筋縄で行きそうもありません。こういったことが行われる背景には、どうしても子どもが欲しいのになかなかできない夫婦が増えていることと、医学がそういったレベルにまで進歩していることなどがあげられると思います。

そんな一方で、 昨日(6月12日)の読売新聞夕刊には、「"妊娠中絶船"が出港」という記事が出ていました。

「人工中絶が禁じられている国の、出産を望まない妊婦を対象に、公海上で中絶処置を行う船」=妊娠中絶船がオランダの港からアイルランドに向けて出航した、というのです。こちらの背景には、世界の人工中絶が禁止されている国で毎年、危険な非合法中絶が2000万件行われ、妊婦7万人が死亡している状況があり、「国内法の制約を受けない公海上で医師が安全な処置を取り、悲劇を防ぐのがねらい」だそうです。

ふーむ、子どもを望む人達がいる一方で、望まない人達もいる・・・。

世の中、なかなかうまく行かないものです。

2001/6/13

(追記)

1月15日タレントの向井亜紀さんと夫の高田延彦さんが、アメリカ・ネバダ州の32歳の代理母による出産で、双子の男の子が誕生したということを記者会見で発表しました。その中で向井さんは、
「代理母」(だいりはは)
というふうに言っていました。子供を生む、母になるのも、21世紀は複雑な世の中になっています。

2004/1/15


◆ことばの話321「右か?左か?」

今回は「ことばの話」ではないのですが、以前から気にになっていることについて書きます。先日、東京に出張しました。その時乗ったエスカレーターでは、みんな左側に一列に並び、右側をあけています。大阪では大体、右側に一列に並び、左側をあけています。東京と大阪で逆なのです。これはよく言われていることです。

が、しかし、大阪でも「東京式」が混じっているところもあります。JR新大阪駅。やはり東京からのお客さんが多いせいでしょうか。

考えてみると、10年ぐらい前には東京の人は、エスカレーターの上では歩きませんでした。だから当然、どちらかをあけて一列に並ぶなんてことはしませんでした。逆に、大阪の人は、皆エスカレーターの上を歩きますから、どちらか片方の列をあけるなどということはしませんでした。東京・大阪どちらの街でも、「片側をあける」という習慣は、ここ10年ほどで自然と醸成されてきたものです。左右が違う理由に付いては色々取りざたされているようですが、決定的なものはありません。

並んだり"順序良く"ということが、「いらち」のために出来ない大阪人が、なぜエスカレーター片側をあけて一列に並ぶのか?これはひとえに「その方が合理的」「結果として、得になる」という計算によると思われます。

また、エスカレーターの上で歩かなかった東京人が、なぜ片側をあけて一列になったのか?

それにはいくつかの理由が考えられます。まず、東京に東京以外の地域(特に関西)からたくさん人が流れ込み、エスカレーターの上で歩く人が増えてきたからでしょう。

二つ目は、東京の地下鉄などのエスカレーターが、異様に長くなったこと。地下鉄・大江戸線なんて、エスカレーターで地下に潜っている間に、地上を歩いている人が目的地に着いてしまう、とまで言われるほどです。これで、今までは歩かなかった人まで、急いでいるときなどは仕方なく歩き出したのではないでしょうか?

そして三つ目の理由は、10年前に比べて、世の中がバタバタと忙しくなったこと。

こういったことから、東京でもエスカレーターの上で人が歩き出した。それで片側をあけるようになったと思われます。

そんな中で、エスカレーター上で「歩かない」人たちにとっては、実は大変なことが起こっているのです。つまり、本来なら2人乗れたはずの一つのステップの片側に1人しか乗らないために、皆が歩かないで詰めて乗っていた時に比べて「倍」時間がかかるようになっているのです。

急ぐ人はより早く、急がなくていい人は、以前より遅くなる。

なんだか、新幹線と、田舎のローカル線を見ているようです。中間・中庸はないんですかねえ・・・。

2001/5/29

(追記)

その後も考えています、この問題。

大阪も東京も、10年前に比べて高齢者が増えて、エスカレーターの上で歩く人が減ったのではないか?いやいや増えたのは、ただの高齢者ではなく「元気な高齢者」だから、逆に歩く人が増えているのではないか。

それよりも以前、大阪ではエスカレーターが空いている時は、詰めないで一段あけたりしていたので、今のようになっても以前より遅くなったとは言えないのではないか?などなど。一筋縄では行きそうにありませんね。

2001/6/13

(追記2)

大阪のユニバーサルシティ駅で「大阪の右並びが、地方から来る人たちによって乱されている!」という声を聞き、実際調べに行きましたが、よくわかりませんでした。ただ、右並びではなく「左側に乗っていた人」に「どこから来ましたか?」と聞くと、京都の長岡京市、宇治市、滋賀の八日市市など、京滋地区が多かったです。なぜでしょうね。

あと大阪駅で「左側に立っていた」おじさんに、「どちらからいらっしゃいましたか?」と聞くと、東京からの出張でした。「なぜ左に立つのか」を聞くと、

「キープ・レフトだからね。」

という答え。しかし「キープ・レフト」は「左並び」ではなく「左側通行」のはず!やはり東京人は「エスカレーターの上では立ち止まるのが基本」と考えていて、「立ち止まる」=「通行」で「キープ・レフト」=「左側に乗る」になっているのではないでしょうか?それに対して、大阪は「エスカレーターの上では歩くのが基本」。だから、同じ「キープ・レフト」にしても「歩く人は左、立ち止まり人は左ではない方(=右)」となったのではないでしょうかね。その証拠に東京の営団地下鉄では「エスカレーターの上では、危ないから歩かないように」呼びかけているそうです。大阪は「走らないように」は呼びかけていますが、どこも「歩かないように」呼びかけているところはありません。

ちなみに、10月18日の朝日新聞の朝刊27面「ことば」というコラム欄に、こんな記事が。

「19世紀の化学者パスツールは"生物は、右と左の区別に支配されている"と言った。20世紀の化学は生物に限らず、左右の区別を実現した。」

ふーん、パスツールはこんな事を言ってたんだ。

2001年のノーベル化学賞受賞が決まった、野依良治(のより・りょうじ)名古屋大学教授の研究が、分子を合成する際にできてしまう、「同じ形だけれども決して重なり合わない」という特性のうち、右か左どちらか必要な方だけだけを合成することが出来る技術「不斉(ふせい)合成」に関するものだったので、こんな記事が載っていたようです。

2001/10/18

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