「私は差別をしている」と、胸を張って言う人は、いないと思う。
でも「私は差別をしていない」というのは、あるいは、胸を張って言う人はいるかもしれない。私もそう言う可能性がないとは言えない。しかし「差別」は、自分で意識しないのに、している可能性があるから難儀だ。
人はみな、いろんな形で「真理」を求めて日々格闘している。しかしある時点で、まるで悟りを開いたように、
「そうだったのか!」
と思う瞬間が来ることがある。そうすると、真理を求める作業をやめてしまう。だって真理に行き着いた(と思った)のだから。ここが厄介で、たどり着いたと思った真理は、まるで、
「砂漠の中の蜃気楼のオアシス」
のようなものだということが多いようなのだ。つまりそれは、普遍の真理ではない。しかし、蜃気楼にたどり着いたところで、思考停止になる(楽をする)と、自分の「決め付け」「思いつき」が「絶対」だと考えてしまう。「絶対など、絶対、ない」のだ。これは「例外のないルールはない」という例の格言(?)の自己撞着と同じだけど。
著者には『「あたりまえ」を疑う社会学』という、なかなか食指が動く(おもしろそうな)タイトルの著書もある。読んだような気もする。読んでないかもしれない。
「あとがき」に書かれた次の一文、
「具体的な『いじめ』という事件が起こり、それへの対応として『いのちの大切さ』という抽象的で一般的な道徳や倫理が確認される。どうしてもっと“子どものこころや身体に響き、突き刺さってくる”具体的な“生きた”言葉で語れないのだろうか。校長や教頭という管理職になれば、その言葉をどこかへ置き忘れてしまうのだろうか、失ってしまうのだろうか、と感じてしまう。」
というところにはまったく同感。放送でもよく使う「命の大切さ」という言葉の空虚さには、日々、疑問を感じているからだ。一見(一聞)するともっともらしく聞こえるけど、実は何も語っていないに等しいこの言葉に、子供たちの心が揺り動かされるとは思えない。
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