ヘッダー Space『東京から考える
〜格差・郊外・ナショナリズム』
(東 裕紀・北田暁大、
NHKブックス:2007、1、30)
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ともに1971(昭和46)年生まれ、東京の郊外に育った気鋭の論客の対談集。北田暁大の本は『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んだことがあるが、そのときは面白いなと思ったので、東裕紀についてはよく知らなかったが、この対談集は面白いのだろうと思った。その上、価格が1160円とは安い!と思って購入。私よりも10歳下。なんだか話が難しい。でもこの世代の上には、浅田 彰とか宮台真司とかがいて、その次の世代なのだなということがよくわかった。北田はこの本で、
「都市のあり方を決めるうえで重要な役割を果す『コンビニ』『ジャスコ的なもの』」
という概念を提唱しているが、これは大変よくわかった。たとえばこういったものはもともと庶民的なものなので、「高級」というものからは遠いのだが、従来の概念から言うと「高級」なはずの「ヒルズ族」は、必ずしもこういったものと敵対的ではないということ。
これまで、所得の多い人たちは高いものを、中ぐらいの人は中ぐらいのものを、そして所得の少ない人は安いものを買うという「分相応」な購買行動を取っていたのだが、ここ10年ほどで、そういった当たり前のつながりは消えた。所得が多かろうが少なかろうが、自分らしいと思うもの、自分の欲望にあった物を購入するというふうに「ライフスタイルの変化」が起こった。もちろん、所得の多い層は安いものも無理なく買えるが、所得の少ない層は、消費者金融から借りて買うかローンで買うかしないと高い物は買えない。そこからは「我慢」という概念も消えたのではないか。
「就職」ならぬ「就社」で、年功序列制度の中、右肩上がりの所得が保証されている時代が終わると、欲望丸出しの我慢のない「便利さ」を追い求める世界が広がっていた。便利さと背中合わせに「危険」が潜んでいる。「利便性と安全性は反比例する」というのは、「道浦の法則」である(と、私が勝手に名付けている)。ま、そういう意味では、この本に書いてあることは、非常に私の心情とピッタリ来ましたね。また、「冨の二分化」の原因が「情報財が非常に安くなっている」ということを挙げていたのは新鮮。「そうだったのか!」と思った。ということは、この流れはここ10年のことですね。
ただ、最後までよくわからなかった言葉が一つある。「シミュラークル的」という言葉。ネットで検索すると、
「フランスの思想家、ボードリヤールが提唱した概念。ポストモダン社会における、オリジナルなきコピーのこと。元来は文化人類学の用語であり、ある土地の伝統文化が滅びてしまった後、後世の人間がそれを惜しんで復活させた『まがいもの文化』を指す。
⇒ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』」

と出ていた。なーんだ、「まがいもの文化」のことか。つまり「キッチュ」ってこと?難しいい言葉を使わずに、わかり易く言って欲しいなあ。

★★★★

(2007、3、16読了)

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