ご存知・・・だと思うが、直木賞受賞作。芥川賞の最年少コンビに話題人気をさらわれて影が薄いが今回の直木賞受賞の江國香織・京極夏彦というのは、ともに人気作家で「え?まだこの人たち、直木賞を取ってなかったの?」というぐらいの大物であった。でも、二人とも私より年下。ほぼ同世代だけれど。
この『号泣する準備はできていた』が12編のお話を集めた短編集。ただ、あとがきで江國さんが、「短篇集、といってもさまざまなお菓子の詰め合わされた箱のようなものではなく、ひと袋のドロップという感じです。」と書いている。そうかなあ。クッキーの缶という感じがしたけど。
短編集というのは、読みやすそうで読みにくい。一つの話を読むのはすぐに読めるのだが、次の話に入る時に頭を切り替えなくてはならない。これが煩わしく、ただページを繰っていると、まだ頭の中で理解できないうちに、もう次の話にページが進んでしまって読み直したりすることが多い。この本もどちらかというとそういう傾向があった。で、一つの話が終わったら、一回本を閉じてよそ事をしてから読むとか、寝る前に一つずつ読む、とかいう読み方をオススメする。
短編って、「詩」のような感じなんだよね。1ページに13行しかないし。字数が少ないから読みやすいかというと、そうでもない。江國さんは「直木賞」だが、出て来る人物は、綿矢りさの「蹴りたい背中」の主人公が大きくなったような感じがする。「ことば」を大切にしているところも「詩」的なのかも。そこも綿矢に通じる。金原とは大違い。
たとえば、表題作「号泣する準備はできていた」の中で、「隆志と身体を重ねることは人生で最大の驚きだった。」(218ページ)のあとの、隆志とのセックスの様子を描写したところは、なんと11行にわたって、41字×10行+16字=426字分、「。」なしにワン・センテンスで息継ぐ暇も与えないようなめくるめくすてきすてきすてきな時間を書き綴るなんて、直木賞ではなくて芥川賞ではないのかなと思わせてしまうのである。ま、わざとらしいと言えばわざとらしいのだけれど。そしてそのあとの、「私の心臓はあのとき一部分はっきり死んだと思う。さびしさのあまりねじ切れて。」(220ページ)という表現は、いい。「蹴りたい背中」の「さびしさは鳴る」に通じる表現だと思う。いいね、いい。「、」がないし。「さびしさ」が、ひらがなだし。ハートがギュッと締め付けられる感覚は、つねられているよう。そして思いっきりつねられるとその部分はねじ切れてしまうのだ。切り取られるのだ。
江國さんの作品は「きらきらひかる」しか読んでいないが、ほかの作品も、読んでみようかなと、ちょっと思った。この作品は女性向き、かな?
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