今回のお届け先はアメリカ・ニューヨーク。ヘアスタイリストとして腕一本で勝負する徳山隆偉さん(33)と、大阪に住む母・明子さん(63)をつなぐ。NYに渡って8年。2年前にはヘアサロンの激戦区・マンハッタンのアッパーイーストに念願の店をオープン。次なる目標は「美容師の聖地ミッドタウンに超高級サロンを出すこと」という隆偉さん。NYで勝つために、がむしゃらに突き進む息子に、母は「彼はいつも自信満々。パーッと突っ走ってしまうんじゃないかと心配で…」と話す。
元々日本でヘアスタイリストとして活躍していた隆偉さんが“世界一の街・NYで勝負をしたい”と、すべてを捨ててこの街へやってきたのは25歳のとき。高級サロンに片っ端から電話をかけ、なんとか有名トップスタイリストのアシスタントとなった。だが「給料はなく、1人シャンプーするごとにもらえるチップが5ドル。1日15ドルほどで生活しなければならなかった。あの時は辛かった」と振り返る。
極貧生活を続けながら必至で食らいつき、技術を高めていった隆偉さんだが、そこで突き付けられたのは、技術だけではどうにもならない現実だった。「日本のサロンはシステム的にシャンプー、カラー、カット、さらに店長…と徐々にステップアップしていける。でもNYでは、アピールが下手な日本人はいくら優秀な技術を持っていても、ただ“便利なアシスタント”として使われるだけ。ステップアップは難しい」と隆偉さんはいう。
この街で這い上がっていくのに必要なのは自己主張すること。「自分はこんなカットができる」「こんな条件では働きたくない」と、衝突を恐れず勝負を挑んでいった隆偉さん。時にはクビになり、時には自ら店を去り、数々のサロンを渡り歩きながら自分のステータスをレベルアップさせてきた。そして今や「ヴォーグ」など有名ファッション雑誌のスタイリングも手掛け、この世界では知られる存在になった。
渡米からわずか5年でマンハッタンの高級住宅街にオープンした店は、お客の多くが地元のニューヨーカーたち。経営もすこぶる順調だという。お客のスタイリストを見る目は非常に厳しいというNY。隆偉さんはカットの技術もさることながら、ブローのテクニックも高く、さらには、新規のお客が再び店に戻ってくる率を上げるために…と、自信にあふれる視線、目力でアピールするなど、小さな努力も惜しまない。そんなパフォーマンス1つ取っても、競争が厳しいこの町で生き残るには重要なのだという。
15人いる店のスタッフのほとんどが若い日本人。“ここにいるスタッフはかつての自分自身”との思いで、週に一度、閉店後に彼らのために勉強会を開く。技術では決して負けていない日本人が、このNYで言葉や文化の壁に阻まれて能力を発揮できずにいることが、隆偉さんには歯がゆいのだ。「アメリカ人のスタイリストはすごく自信を持っている。でもそのほとんどがハッタリだと思う。日本人は、技術はあっても自信のなさが伝わって、なかなかその良さが伝わらない。日本人の良さを売った上で勝っていきたい」と隆偉さんは語る。
さらなる高みを目指して走り続ける隆偉さんに、母から届けられたのはヘアスタイリストの必需品シザーケース。母が自ら選んだものだ。添えられていた手紙には、「ゆっくり行っても目的地には着く。まだまだ先が長い世界。常に修業と思ってください」と、がむしゃらに突き進む息子を心配する思いが綴られていた。そんな母の想いに感謝しながらも、隆偉さんは「やることはいっぱいある。負けていられない。突き進みます!」と、力強く語るのだった。