◆ことばの話2184「恵存と挿架」
池田弥三郎の『郷愁の日本語〜姿勢のくらし』という本を読んでいたら、こんな一文が。
『また別の後輩の一人がわたしに自分の著書をくれて、扉に「池田弥三郎先生・恵存」と書いた。この後輩にも言ってやった。−君。「恵存」というのは先輩が後輩に贈るときに使うんだ。「おい、とっとけよ」ぐらいの語だ。君がわたしに贈るのなら「挿架」とでも書きたまえ。「書棚の片隅にでも、おさしはさみおきください」ということになる。』(78ページ)
ええ!そうだったの!!?
不肖わたくしも、おととし(2003年)の5月に『「ことばの雑学」放送局』を上梓したのですが、その際に、お買い上げいただいた皆様のうちサインを望まれた方にはお名前を書いて差し上げ、そのお名前の横に、
「恵存」(どうぞおそばに置いてください)
と書き添えていたのです!というのも、私よりも先に本を出した後輩の脇浜紀子アナウンサーが、当時の社長に本を「贈呈」した際に、
「こういう時は『恵存』と書くんだ」
と教わったという話を聞いていたものですから。しまったあー、しくじったか?
しかし、この本をさらに読み進むと、
『「恵存」についての追記』
という項がありました。少し長いですが、引用します。
『恵存という語は、もともとは謙辞ではなく、「とっておけよ」といったような意味だということは、だいぶ以前のこと、中国文学に造詣の深かった、なくなった私の叔父、池田大伍から聴きました。その後、五、六年前だったと思いますが、吉川幸次郎先生のお説として、土岐善麿先生からうかがいました。そのとき、やはり土岐先生が、「挿架」という語があることを、吉川先生のお説として、教えてくださいました。そのことは前に書いたことがありますので、今回の小文にはそのいきさつは書きませんでした。わたしの小文の説は、受け売りです。
私の小文は、もちろんああした戯文ですから、ことばの慣用や通用をことさら無視して、わざとペダンティックに、語原説を持ち出して、話を効果的にいたしたわけであります。
言うまでもなく、ことばは、その慣用や通用は無視できません。近代・現代のことばの辞典は、その慣用・通用を主として、説明いたしますし、それで十分に現代語の辞書として役立ちます。恵存が、かりにもとはどうであれ、今日、謙辞として通用し、慣用していれば、それはその限りにおいて、あやまりではありません。ことばは、根本において、生きているか、死んでいるかが問題であって、正しい、正しくないは、厳密な意味では言えないからであります。(中略)ざれぶみで、とんだおさわがせをいたしました。」
(昭和五十四年八月『文藝春秋』疑問の投書に答えて)
ははあ、当時でも「恵存」は謙遜の言葉として著書に記すことは一般的に広く行われていたのですね、「挿架」よりも。それで、前の文章を読んだ読者から、「恵存でいいんじゃないのか」疑問の声が寄せられたと。それに答える形で書いた文章が、単行本化する時にも載ったのですね。じゃあ、「恵存」を使ってもいいんだ!
ちょっとホッとしましたが、せっかく「挿架」という言葉を知ったのだから、今後はチャンスがあれば、両方使ってみようかと思います。(ちなみに「挿架」は、『広辞苑』には載っていませんでした。)
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