◆ことばの話2160「〜することは可能ですか?」

4月18日、「ズームイン!!SUPER」を見ていたら、日本の「Shall we ダンス?」のリメイク版「Shall we dance?」に主演したリチャード・ギアさんに、女性キャスターがインタビューしていました。
映画で主人公は、家族に内緒で社交ダンスを習うのですが、それに関連して彼女が、
「リチャード・ギアさんも、プライベートで何か家族に内緒でやっていることはありますか?」
と尋ねたところ、
「そりゃあるよ。でも言ったら秘密にならないじゃないか。」
と、至極まともな答えが返って来ました。それでもめげずに、
「それは判るんですよ、でも・・・」
と食い下がり、もうひと押しした、彼女の言葉が気になりました。

「さわりだけでも、教えてもらうことは可能ですか。」

この「さわり」は、きっと「ちょっとだけでも」という意味で、間違って使われています。本来の「さわり」は、一番肝心なところ、「義太夫節の中で、一番の聞かせ所(聞き所)とされる部分」(『新明解国語辞典』)なのです。まあ、これはよく言われていますので、あとで個別に勉強してもらうとして、私が気になったのはそこではありません。そのあとの、

「〜してもらうことは可能ですか」

というものの言い方、口の利き方です。
これは以前も書いた「〜してもらえますか」(平成ことば事情1893「見せてもらっていいですかあ」)のバリエーションだと思いますが、それと共に「〜は可能ですか」なんていう英語の直訳調の堅い物言いが気に食わないのです。仕事の時に命令系統として使うのならいざ知らず、インタビューで話を引き出そうというのに、事務的なイメージの言葉の使い方はどうも気になる。キャリアウーマンが、下請け会社の「立場の下の人」に対して言う感じ。丁寧なようでいて、なんとなくのどに骨がひっかかるような感じです。もしくは客として、店の人に電話で何かを要求する時に、特に店側がウダウダとはぐらかすような時に、問い詰めるように聞く言い方が「〜することは可能ですか」「〜してもらうことは可能ですか?」だと思います。
主観的に自分が関与している、しかも恩恵を受けることなのに、それを単に「可能・不可能」という客観的に聞こえるように聞いているところが、スカしているように思えて「いけ好かない」と感じるのです。「可能ですか」を「できますか」もしくは「できませんか」にするとちょっと感じは柔らかくなるように思いますが、それでも、なんとなく失礼。
私がもし、こういうふうに「〜することは可能ですか?」と聞かれたら、
「可能だけど、君のその”物言い”に対して、したくないし、する義務もない。」
と、にべも無く答えることでしょう。その点、リチャード・ギアは大人だし、紳士的で良かったです。
ふと思ったのですが、「〜じゃないですか」「〜の方」「よろしかったですか」「1000円からお預かりします」といった一連の「ファミ・コン言葉」(ファミリーレストランやコンビニエンスストアでアルバイト店員が使うような言葉)にハラを立てている人は、この「〜することは可能ですか」にも、カチンとくるのではないでしょうか?もっとも、私が「ファミ・コン」言葉に思いっきりハラを立てていた5年程前には、そのことを訴えても「何それ?聞いたことないなあ・・・」と言う人が多かったので、今回も今はあまりハラを立てている人いないかもしれませんが、おそらくあと2、3年すると、「〜することは可能ですか」がもっと出回って、ハラを立てる人が続出するだろうと思います。
実は、これはうちのXアナウンサー(女性)もよく使う「物言い」でありまして、以前からなんとなく気にはなっていたのですが、今日のズーム・キャスターのインタビューで聞いて「あ、これはそういうことか!」と、気に食わない理由がわかりました。
そもそも「〜してもらう(こと)」と、聞き手にとっての利益を要求している物言いだということ、そして「可能ですか?」という言い方に対する答えと気持ちを大きく4つに分けて列挙すると、以下のようになります。
(1)可能だし、してあげたい
(2)可能だけど、したくない
(3)不可能だけど、してあげたい
(4)不可能だし、してあげたくない

「可能ですか」という問いは、可能か不可能かだけを問うているようでいて、実は「可能」の中に含まれる(2)「可能だけどしたくない」という答えを抹殺しています。「可能である」と答えると、「じゃあして下さい」といことを、暗黙のうちに要求しており、
「できるかできないかって言ったら、できるけど・・・したくないなあ、察してよ、そのあたり。」
という答えを出すことを封じ込めているという「いやらしさ」を感じるのです。おそらくこの言葉を使っている当人たち、今20代の若い人たちにはそのようなつまりは毛頭ないのでしょうが・・・。
なぜかはわかりませんが、こういった「英語直訳的日本語」は増えているようです。
NHK放送文化研究所の『放送研究と調査2005年4月号』の72ページ、放送用語委員会(広島)の報告「『書きことば』を話しても伝わらない」で、塩田雄大さんが1月21日に広島で行われた第1268回放送用語委員会の模様を報告していますが、その中で「語順の問題」として、委員の一人の東京外国語大学教授の井上史雄が、
「町の半数の世帯が林業に従事している。林業の盛んな町です。」
という文章は、
「現代日本語では、気づかれにくい形で英語直訳的表現がみられる。わかりやすく自然な日本語にするためには、注意が必要である。」
と指摘。この文章は、
「林業の盛んな町で、町の半数の世帯は林業に従事しています。」
とした方がわかりやすいとコメントしています。
思うに、アナウンサーの中には「ら抜き言葉」と言われる一段動詞、カ変動詞に「れる」をつけて可能の意味を表す「見れる」「着れる」「来れる」といった言葉を使わないようにすることを徹底するあまりに、五段動詞の可能動詞として認められている、「行ける」「蹴れる」「書ける」といったものまで避けて
「行くことができる」「「蹴ることができる」「書くことができる」
というふうに、
「〜することが出来る」
という英語直訳型の日本語を取り入れる傾向がありはしないでしょうか。「〜することは可能ですか」には、その影響が見られるように思うのですが。いかがでしょうか?

2005/4/28


◆ことばの話2159「死者数」

4月25日午前9時18分、JR福知山線で起きた脱線衝突事故の死者は73人(4月26日正午現在で)、その後まだ死者は増え続け、28日の捜索終了時点で106人となり、負傷者も450人以上という、JR始まって以来の大事故になってしまいました。

思いもかけない事故で亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の方には心からお悔やみ申し上げます。

さてこの事故のニュースの原稿を読む中で、気になったのは、
「死者の数は、73人に上りました」
という言い方の中の、
「死者の数」
という言葉です。死んだ人のことをひっくるめて、なんだか数字で済ましているような気がします。
「亡くなった方は、73人に上りました」
というふうに主語を「数」ではなく、飽くまでも「方(つまり、「人」)」にすべきではないでしょうか。そこまで考えている人はあまりいないかもしれませんが。
今日はまさにその亡くなった73人の方のお名前を読み上げましたが、一人一人の名前の陰に、その人の精一杯に生きた命がある・・・あった。突然、何の前触れもなしに命を奪われた無念・・・そしてそれにつながる人たちが、今も、いる・・・。そういう思いを込めて、73人の犠牲者の方のお名前を読み上げました。仏前で黙祷する時のような気持ち、供養の気持ちを込めたつもりです。
まだ明日以降も、原因究明とそれにつながる報道は続きますが、二度とこのような事故を起こさないように、我々も報道を通じて働きかけていく必要があります。

今回の事故でその思いを強めたのは、
「便利さと安全性は、反比例の関係にある」
ということです。どうも現代の日本人は「便利さ」を追求しすぎるのではないでしょうか。「便利」がいけないとは言いませんが、バランスを考える必要があるのではないでしょうか。個別の原因究明だけではなく、そういった広い視野、文明論的な観点からも論じる必要があると思います。
合掌。

2005/4/27



◆ことばの話2158「バッグとバック」

4月16日土曜日の「ズームイン!!サタデー」、この4月から読売テレビのズムサタ2代目キャスターとして登場している小林杏奈アナウンサー、朝6時過ぎのニュースで、「かばん」の「bag」ことを、
「バック」
と2回も言っていました。これはもちろん濁って、
「バッグ」
と言うべきところですね。濁らないと「バック・オーライ」の「バック」になってしまいます。さっそく注意しましたが、彼女は入社3年目、これまでの2年で何度となく「バッグ」は出てきたはずなのに・・・気づかなかったのかなあ。「ベッド」を「ベット」と言ってるかもしれないなあ、気をつけてもらわないと。
これを聞いて思い出したのが、去年の9月に大阪・北浜で見かけた立て看板。天満防犯協会と天満署の名前で出ていたその看板には、こんな文句が記されていました。
「そのバッグ ねらってますよ 後ろ(バック)から。」
なんとも…ダジャレかい!意味不明!ありえねー。と、思わず「若者ことば」が口を突いて出て来てしまいました・・・。これは防犯に役立つのでしょうか?もしかしたらバッグを狙っている輩も、”脱力感”で狙う気をなくすかも。それならば役に立つということですね。
大阪のその手のポスターや看板の文句、”脱力系”のものが結構あります。古くは、清原選手が出たポスターで、
「覚せい剤打たずに ホームラン打とう」
というものもありました。すぐに苦情が出て回収されたそうですが。
最近では、
「チカン、アカン!」
というのが簡潔にしてインパクトも強く脚韻も踏んでいて、評判になりました。
それに触発を受けたのか、先日某所で見かけた消防署の防火キャンペーンのポスターには、
「放火、アカン!」
と書かれていました・・・それって、モロにマネやし、当たり前すぎる・・・韻も踏んでないしなあ・・・。”脱力系”です。せめて、
「ほうか!放火アカン!」(*「ほうか」は「そうか」の意味)
ぐらいにするとか・・・あきまへんか?
2005/4/18



◆ことばの話2157「押しも押されぬ」

タイトルの「押しも押されぬ」は誤用であり、正しくは、
「押しも押されもせぬ」
である、ということはわかっています。後輩のアナウンサーが間違っていたりすると指摘します。と言うか、たいていは、記者やディレクターの原稿が間違っているのをそのまま読んでしまっているわけだけれども。
私も委員の一人である日本新聞協会の新聞用語懇談会放送分科会が2003年春に出した
『放送で気になる言葉改訂版』の13ページには、「慣用句の誤り」の一番目に載っていて、
『「押しも押されぬ歌舞伎界のプリンス」「押しも押されぬ次世代のアイドル」などの誤用例が非常に多い。正しくは「押しも押されもせぬ(しない)」で、『新聞用語集』の「誤りやすい慣用語句」にも収載されている。同じような意味の成句に「押すに押されぬ」があるが、これとの混用であろうか。』
と記されています。
また、Yeemarさんのホームページ「ことばをめぐるひとりごとり」でも2001年の4月11日に「押しも押されぬ」を取り上げています。それによると、金田一春彦氏の『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川oneテーマ21)の中で、

『この「お母さん」という言葉は、いまでは日本国中どこへ行っても押しも押されぬ標準語になっているが、明治の末のころまでは、東京では士族階級の人たちはオカカサマと言い、町人階級の人たちはオッカサンと言うのが普通だった。(p.148)』

というふうに「押しも押されぬ」という言葉が出てきたが、これは金田一氏の原文にあったのか?それとも、組み版の際に間違ったのか?と疑問を呈しています。そしてYeemarさんは、ご自分の調査の中で見つけた「押しも押されぬ」としては、

『1987年「あばれ太鼓」でデビュー。そして今や押しも押されぬ国民的歌手となった坂本冬美。(東芝EMI株式会社ファミリークラブ「坂本冬美大全集」広告「週刊朝日」1999.11.19)』『しばらく前、わたしの服装を同僚にほめられたのだ。ただの同僚ではない。鍛え抜かれた目をもつ女性教官で、しかも驚くなかれ、押しも押されぬ服飾美学の専門家に絶賛されたのだ。(土屋賢二・棚から哲学 「週刊文春」1999.06.10 p.111)
などを挙げ、伝統的には「押しも押されもせぬ」だったものなので「押すに押されぬ」との混用か(『朝日新聞の用語の手引』)とするものもあるが、キッチリと伝統的な使い方をして欲しいと述べてらっしゃいます。

そういった誤用は、最近のことかと思ったら、結構昔からあるようで。ドラマ「白い巨塔」のマニアで、昔の田宮二郎主演の「白い巨塔」のDVDまで購入してしまったSアナウンサーが、こんなメールを送ってきました。

「『白い巨塔』を見ていたら、田宮二郎扮する主人公の財前吾郎が『これで俺も、押しも押されぬ名教授というわけだ』と一言。『押しも押されもせぬ』の誤用は、けっこう古くからあるんですね。」
田宮二郎の「白い巨塔」は1978年の放送ですから、今から27年前には、もうこういった言い方は出てきていたわけですね。
今でも時々目にしては、
「それは違うよ!」
と注意してはいるのですが、「押しも押されぬ」語呂がよく短いためか、「押しも押されもせぬ」よりも、ついつい使われてしまっているようです。
GOOGLE検索でも(4月18日)、
「押しも押されぬ」= 2万0400件
「押しも押されもせぬ」= 7390件
「押しも押されもせぬ」が「押しも押されぬ」に「押されている」という状況です。
ついでに、(4月20日)
「押しも押されもしない」= 678件
でした。

2005/4/18

(追記)

上に書いたYeemarさんこと早稲田大学講師の飯間浩明さんから、こんなメールをもらいました。
『「白い巨塔」のせりふ、私も偶然チェックしていました。そして、私にとっても、これが「押しも押されぬ」の今のところ一番古い例です。偶然の一致におどろきました。ただ、私の聞いたのはちょっと違い、次のとおりです。

(学術会議会員立候補に当たり)財前五郎(田宮二郎)「いよいよもって財前五郎は◆押しも押されぬ一流教授になれるってわけだ」〔聞き書き〕
(フジテレビ「白い巨塔」2004.08.21 13:00放送=1978年の再放送)

録画していなかったので、一字一句正確かどうかは自信がありませんが……』
とのことでした。

2006/8/6



◆ことばの話2156「鳥フル」

夜勤明けの朝の8時半過ぎ、枕元のケータイのブルブル・ガタガタ震える音で目が覚めました。Sアナからのメールです。
「今朝、朝刊を見たら、鳥インフルエンザのことを『鳥フル』と略していました。いくらなんでもこれはどうなんでしょう?」
そんなこと言われても、寝たのが明け方の4時だから、まだ頭が働かないよ。前にそれについて「平成ことば事情」で書かなかったっけ?検索してみて。
「『鳥インフル』はありましたが、『鳥フル』はありませんでした。」
あっ、そう。前に書いたのは「鳥インフル」か。それからさらに「イン」を省略してしまったわけね。やりますな、新聞さんは。トリフルパンチ。
Googleで検索してみると(4月20日)で、
「鳥フル」=1万4800件!!
と、なんと知らない間に、とってもよく使われているではないですか!どないなっとんねん!たしかに「鳥インフル」だと略し方が中途半端と言うか、あまり省略さえてない感じはしますね。「鳥フル」の方が略語としてはお手頃ですね。
でも・・・意味はよくわかんなくなっちゃったゾ。いいのか、これで!?
なんでも今、ベトナムで流行っている鳥インフルエンザは、死亡率は下がったけど、その分広がりやすくなったとか。つまり、死なないで症状も出ない健康保菌者が増えたことで、人にうつりやすくなってるそうです。
「鳥インフルエンザ」と長い名前で言うよりも「鳥フル」と短い方が、言葉・名称も広まりやすいような気がします。症状と名称の広がりは、比例するのかな???
2005/4/20
(追記)
川崎市の西尾さんから、またメールをいただきました。それによると、
「英語では、influenzaのことを一般に略してflu と言うそうだ。Googleで4月21日に調べたら、
「Bird  Flu」=   117万0000件
「Bired  influenza」=     665件
「Avian  influenza」= 44万9000件
「Avian  Flu」=    27万7000件」
だそうです。つまり、「Bird  Flu」を直訳して「鳥フル」としているのではないか?ということだと思います。
そういえば、おととしの2月に、アメリカに住む先輩から、「アメリカでも『インフルエンザ(Influenza)』って言葉は長すぎるからか、日常的には短縮して『flu(フルー)』と言います。」というメールをもらっていたのを思い出しました。「平成ことば事情1019『流感』」に書きました。
2005/4/22
(追記2)
毎日新聞11月14日の夕刊1面の見出しが、
「新型インフル行動計画 社会活動の制限盛る」
で、「インフルエンザ」を省略した形の、
「インフル」
を使っていました。
2005/11/17
(追記3)
2007年8月18日の読売新聞の見出しに、
「馬インフル 感染拡大傾向〜JRA次週も微妙」
「馬インフル」が出ていました。そういえば、ありましたね、競馬が中止になったことが。(2007年8月18、19日)。正式な略さない言い方はもちろん、
「馬インフルエンザ」
です。
2008/7/10
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