◆ことばの話1515「パチスロ店」
パチンコ屋さんに足を踏み入れなくなってずいぶん長くなります。
さて。
報道のYデスクから内線電話です。
「ニュースで、パチスロの店の経営者宅に強盗が入ったんやけど、『パチスロ店(てん)』って言い方、するかなあ?」
「うーん、一般的には言うんでしょうけど、ニュースでは聞いたことないですね。俗っぽい感じですね。『パチンコ店』じゃあ、ダメなんですか?』
「パチンコは一台もなくて、パチスロの専門店なんや。今は、パチンコよりパチスロの方が、店として儲かるらしい。」
「うーーん、じゃあ、『ゲーム店』では?」
「それやと、『ゲームセンター』みたいやろ」
「それもそうですねえ・・・。」
「以前、『パチスロ機』というのは使ったことあると思うんやけどな。」
一応、「パチスロ店」がネット上で使われているかどうか、GOOGLEで検索したところ、2170件、使われていました。また「パチスロ機」は2万1800件でした。これだけ出ていると、「パチスロ店」を使ってもしょうがないかな。
よく、そういった店に行くというOアナウンサーに効いてみました。
「パチスロって、スロットマシーンみたいなものなの?」
「ええ、コインを入れて、小さなレバーを押すと、絵が描かれたパネルが回るんです。」
「パチンコとスロットマシーンのどちらに似ているの?」
「パチンコには似てないです。スロットマシーンに似ています。」
「パチスロしかない店は、『パチスロ店』って呼ぶ?」
「ああ、呼びますね。」
ということで、「パチスロ店」という呼び方、使うことになりました。でも、なんかひっかかるのは「パチンコ」と「スロット」の両方で「パチスロ」じゃあないのかなあ・・・。
ちょっと、勉強のために、打ちにいってみるか・・・。
2003/12/19
(追記)
勉強するヒマがなくてパチスロに行かないうちに、また出てきました。3月7日、大阪市此花区の77歳の女性が殺害される事件が起きたのですが、この女性は「パチスロ」が趣味だったというのです。よく、
「パチスロ店」
に通っていたというのですが、3月8日の朝刊各紙(読・朝・毎・産)は、
「パチンコ店」
という表記を使っていました。(日経は記事がなかった。)
で、この日のニュースでは「パチンコ店」を使ってしまいました。
2004/3/8
(追記2)
NTTの職業別電話帳で「パチンコ店」を探してみると、項目の名前が、
「パチンコ・スロット店」
になっていました!「パチスロ」も略称としては載っていませんでしたが、一応「スロット」として認知されたということですかね。
2004/6/4
◆ことばの話1514「シクラメンのかほり」
毎年11月の3日に、伊丹市のホールで男声合唱団だけのコンサートがあります。お酒の神様の名前をとって「バッカス・フェスタ」というもので、今年で4回目。私も毎年参加しています。
今年私たちの合唱団は、小椋佳の「シクラメンのかほり」を歌い、ピアノとオーボエの伴奏つき、というのが評価されたのか、「関西合唱連盟理事長賞」という賞をもらいました。
エッヘン!
さて、この曲についてはいくつか思い出があります。今から30年くらい前にヒットしたとき、草花に詳しかった祖父がむずかしい顔をしていたので、どうしたのかと聞くと一言ボソッと、
「シクラメンは香り、せえへん!」
そうなんです、匂わないんですよね、シクラメン。ま、それはそれ。歌の歌詞ですから。
その後、言葉について考えるようになってから聞いたのは、
「『かほり』という表記は、『旧かなづかい』ではない。旧かなづかいで書くと『かをり』である」
ということ。そう言われてみれば・・・というような話です。
さらに、つい先日NHKの衛星放送でやっていた小椋佳の番組によると、この曲を作った当時に付き合っていた女性=今の奥さんの名前が「かほり」だったので、そこから取った、とのこと。なるほど。そういうことでしたか。いろいろと曲の背景にもあるものなのですねえ・・・。
以上、シクラメンの思い出でした。
2003/12/26
(追記)
上田浩史『ワールド・ワード・ウェブ』(研究社、2002)という本を読んでいたら、「魅惑のかほり」という項(125ページ)の欄外にこんな記述が。
「『かおり』の本来の歴史的仮名遣いは『かをり』ですが、『かほり』の誤表記もかなり古い時代にまで遡れるようです。小椋桂のヒット曲『シクラメンのかほり』がこの表記の揺れにさらに拍車をかけたと思いますが、この歌の題名の背景には小椋桂さんの奥さんのお名前「佳穂里」があるようです。」
上田さん、「小椋佳」が「小椋桂」になっていますけど、まあ、それは置いといて、やっぱりそう言うことのようですね。
2005/6/13
◆ことばの話1513「まだ二十歳!」
先日、歌手の宇多田ヒカルさんが、私のホームページを訪れてくれたらしい、という情報を宇多田ファンのかたから連絡いただきました。なんでも、宇多田さんがホームページの中で、「ニューヨーク・ヤンキース」のことを「ヤンキーズ」と語尾を濁って書いたところ、
「それはおかしいでしょ、ヤンキースは濁らないです。」
という書き込みが殺到したことで、ニューヨーク在住で、英語で聞くとどう考えても濁って「ズ」に聞こえる宇多田さんは、初めて、英語を日本語(カタカナ)で表記する際の表記の違いについて関心を持ち、それ(大リーグのチーム名の語尾の複数形)について私が書いたホームページを、ファンの方が宇多田さんに紹介した、といういきさつがあったんだそうです。
それ以来、元々、宇多田ファンである私も、ちょくちょく宇多田さんおサイトを覗いています。するとある日、誕生日を控えた宇多田さん、こんなフレーズが記していました。
「うわあ、まだ二十歳だあ!」
これはね、なかなか言えるひとことではありませんよ。普通の人は、
「うわあ、もう私ってば二十歳になっちゃった!」
と思うものです。で、もっと年配の人たちから、
「まだ二十歳なのに、何を言ってやがる!まだまだ若いよ!」
といわれるわけです。ところが、デビューから5年たって、大ブレークした宇多田さんの場合は、
「まだ二十歳」
なのです。やることやっちゃった、ということでしょうか。このあとの長い人生、一体どうするの?と。
でもこんなセリフが言える立場にいる二十歳は、世界にそう何人もいないと思いますよ。そういう意味で、「スゴイなあー」と思ったひとことでした。
でも、日本の女性ミュージシャンでは、「鬼束ちひろ」や「小柳ゆき」も、まだ20歳か21歳。若くしてブレークするという才能はすごいのですが、それに伴って、普通の人ではわからない悩みというのもおそらくあるのだろうなあ、と、凡人は想像するしかないわけです。
2003/12/25
◆ことばの話1512「図抜けるか頭抜けるか」
またまたふとした疑問が!(毎日のように疑問が出てきます)
「ずぬける」という言葉の「ず」は、「図」か「頭」か?
と思って辞書を引いてみると、ともに当て字で、本来はそのどちらの漢字でもないそうなので、驚きました。それで、関連で、
「ずば抜けて」の「ずば」とは何か?
が気になります。この「ずば」は何なんでしょう?擬音語でしょうか?
この疑問を「ことば会議室」に書き込んだところ、Yeemar さんから次のようなコメントをいただきました。
「素朴には擬音のように思われます。ただし、「擬音+動詞」という語構成の語がごくふつうに作られるかどうか、いちおう検証してみる価値はあります。「擬音+居体言(つまり動詞の連用形と同じ形の名詞)」ならば、以下のような例が思いつきます。「どしゃ降り」「ざあざあ降り」「だだ漏り」「じゃじゃ漏れ」(これは『日本国語大辞典』になし)「どか食い」「びしょ濡れ」「がた落ち」「ずる剥け」「ごろ寝」また「ぱっと見」「ぽっと出」。
「擬音+動詞」は、なかなか思いつきませんが、「ぶら下がる」「すっぽ抜ける」、古いところで「そよ吹く」「ほほ笑む」「(鷲が)かか鳴く」「(馬が)いな鳴く」「(雨が)そぼ降る」、また、特異例として「びしょぬれて」も。「すっぱ抜く」は、「特ダネをスッパ抜く」の場合、「すっぱ」とは忍者の意、「抜く」は盗むであって、忍者が盗むように特ダネをとってくるということだと、よく説明されます(例、さくら銀行編『ことばの豆辞典第2集』知的生きかた文庫、柴田武『知ってるようで知らない日本語3』ごま新書。語源説の出所は〔松屋筆記・大言海〕らしい)。しかし、もうひとつ意味があって、「刀をすぱっと抜く」ことを「すっぱ抜く」とも言うそうです。こちらは素直に「擬音+動詞」と解していいでしょう(「特ダネをすっぱ抜く」も、本当に忍者と関係あるのかどうか、語構成から見て問題はないか。「素っ破のように抜く」のが「素っ破抜く」だとして、「韋駄天のように走る」を「韋駄天走る」と言えるか)。「すっぱ抜き」は、また「ずば抜き」とも言うそうで、そうすると「ずば抜ける」との関連性が考えられます。
ということは、「ずば抜ける」はの「ずば」は、「擬音」から来たと考えるのが妥当なようですね。「ずぬける」と「ずばぬける」の語感の違いは、「ずばぬける」の方が動的、「ずぬける」の方がやや静的、というところでしょうか。
ご存知の方、またご意見お寄せください。ずぬけたご意見、お待ちしています!
2003/12/25
(追記)
2007年4月20日の読売新聞夕刊で、谷本陽子記者が書いた記事の見出しが、
「頭抜けた人〜無“帽”な格好ではいられない!」
というもので、東京・原宿での帽子ファッションに関するリポートでした。ま、モノが帽子だけに「頭」に関係しているので、
「頭抜けた人」
という表現になったのでしょうね。
2007/4/20
◆ことばの話1511「まとまれるか」
政党の合併のニュースの中に出てきた言葉で、おや?と気になった言葉の一つに、
「まとまれるか」
がありました。なんとなく違和感があります。では、どのように言い換えるかというと、少し長くなりますけど、
「まとまることができるか」
の方が良いと思います。
いわゆる「ら抜き」言葉が批判されるために、「れる」「られる」という可能表現を避けて、「〜することができる」
という表現を多用する傾向が、もしかしたらアナウンサーの中にはあるかもしれません。
この場合、「ら抜き」なのか?「ら」を入れてみると、
「まとまられるか」
となって、明らかにヘンですよね。ということは少なくとも「ら抜き」ではない。それなのに、なぜ「まとまれる」に違和感を覚えるのか。これは「まとまる」という言葉の持つ「意味」に原因があるようです。「まとまる」という「自動詞」は、ほおっておいても「自然とまとまる」物なので、そこに「可能・不可能」という要素は入り込まない。「可能か不可能か」というのは「他動詞」の場合に起きるのではないでしょうか。つまり、政党の合併で、中の人間が一つになるかどうかということを表現するならば、
「まとめられるか」
とするのが一番適当だと思われます。このほか自動詞を使うならば、可能・不可能ははずして、単に、
「まとまるか」
とするか、このどちらかでしょうね。
これで、この文章は「まとめられた」でしょうか?
2003/12/25
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