◆ことばの話1105「自殺を図りました」

先週、兵庫県で大阪高等裁判所の裁判官が自殺しました。そのニュースの中で、

「自殺を図ったものと見られています。」

という表現が出てきました。このニュースに対して、読売テレビ報道局のベテラン記者から、

「おれらが若い頃には、『自殺を図る』という表現は、結果的に死ななかった場合(つまり自殺未遂に終わった時)にのみ使っていた。死んでしまった時には、『自殺を図った』を使わないように、厳しく言われたものだが、どうなっているのか。」


という指摘がありました。今の報道デスクは、

「死んだ場合でも死ななかった場合でも、特に区別せずに使っていますね。」

と答えたそうですが、当のベテラン記者から

「用語委員としてはどうなの?」

と聞かれたものですから、他社の用語委員の方にメールでお尋ねしました。結果は以下の通り。回答の中には、社の方針を教えてくれた方と、ご自身の個人的見解が混ざっていますので、個人的見解には「個」とつけました。また、「『自殺を図る』は死亡した場合には使わない」という立場を×、「死亡してもしなくても使う」を○、「使うこともあるし使わないこともある」を△で表わしました。(文脈から、道浦の判断によるもの)

×(テレビ朝日・A氏)
社会部の見解だが、自殺が明らかで死亡した場合→「自殺しました」、
自殺未遂の場合→「自殺を図りました(が重体です)」

×(日本テレビ・T氏)(個)
「自殺を図りました」とう原稿の後に本当に死んでいたら「自殺しました」に変更する。

×(日本テレビ・O氏)(個) 「図る」は未遂の時のみ。本当に死んでしまった時に「自殺を図った」は不適当。

×(日本テレビ・I氏)(個)
「図っ」て成功すると「自殺」、失敗のケースが「自殺未遂」、つまり「図る」は、結果が出る前の途中経過なのだが、ややこしいので、死んでしまった場合は「自殺」、未遂の場合は「図る」という言い方もする、と私は使い分けている。

×(フジテレビ・T氏)
社会部デスクに確認したところ「自殺を図った」は、未遂の印象が強いので、自殺した時には使わないようにしているとのこと。

×(フジテレビ・K氏)(個)
文章表現のモットーは「簡潔でわかりやすい」そこから考えると、死亡した場合は「自殺をした」「自殺したと見られる」を好む。「自殺を図る」は自殺者本人の意思を慮る意図を感じさせ、客観的表現から離れる恐れはないだろうか。

×(毎日新聞・N氏)
『毎日新聞記者ハンドブック』にはこれに関する規定や「シバリ」はないが、「図る」は、「その人がまだ生きている」ことが前提で、「既遂」の場合には使わない。先輩からもそう教わった記憶がある。もっとも、記事において首尾一貫しているかどうかはわからないが。

×(読売新聞大阪本社・S氏)(個)
死んだのに「自殺を図った」とは言わない(使わない)。何かと従来の常識が覆される昨今、今後読売紙上で、自殺で死んだのに「図った」と書くことはないとは断言できないが、少なくとも、これは報道に携わる者の常識であると、かなりの自信を持って言える。

×(大阪日刊スポーツ・O氏)
未遂でない場合は「自殺を図る」を使わない。しかし8日の「拳銃心中事件」では東京本社が「同署は小林さんが華子を射殺した後で、自殺を図ったと見ている」と「使ってしまった」例もある。共同通信の原稿をリライトした時の単純ミスと思われる。

×(共同通信大阪支社・N氏)
「自殺を図る」は「自殺を意図し、死ななかった場合にのみ用いる」と教わり守ってきた。共同通信の基準も同じ。過去3年ほどのデータベースをチェックしたが、死亡したのに「自殺を図った」という記述は見つからなかった。マスコミの慣例として、死亡した場合には「自殺した」、死亡しなかった場合には「自殺を図る」と区別したのではないか。

△(テレビ朝日・Y氏)
「図る」は「企てる」ということなので、正確には「自殺しました」でいいだろう。ただ、結果的に亡くなった場合でも「〜ゆえ、自殺を図ったものと見られます」という言い方は今でもする。報道では統一はしていないが、あまり「自殺を図りました」は使わない。

△(NHK・H氏)
「図る」は原則として「生きている」場合に使用する。ただ、「自殺を図り、○時間後に死亡」のように、生きている時に発見されて、タイムラグがあることがはっきりしていれば、死んでいても「自殺を図る」ことは有り得る。

△(朝日新聞大阪本社・S氏)
「自殺を図る」には「未遂」のニュアンスがあることは確かだが、「自殺を図り、病院に運ばれましたが死亡しました」というように使われる例は散見できる。

△(読売新聞大阪本社・K氏)
編成部やデスクに聞いたところ、やはり自殺を遂げてしまった場合には「図る」は使わないようだ。データベースで「自殺」AND「死亡」で検索したところ、ほとんどのケースで、「図る」は使っていない。30数件中で3、4件、死亡しても「図る」を使っていたが、そのケースは「心中事件」で「妻や子どもを殺した上で、自殺を図った」などのように使っていた。

○(朝日新聞東京本社・F氏)
これに関するルールはない。(結果的に)亡くなった場合でも「自殺を図った(と見られる)」と書いている例はたくさんある。

○(読売新聞東京本社・S氏)(個)
「『自殺を図る』は、未遂の時のみ」という話は聞いたことがない。しかし、自殺の原因を述べる文章では「〜といったことが原因で自殺を図り・・・」という表現の方が自然ではないか。

○(テレビ東京・K氏)(個)
事実の説明として死んだことをはっきりと伝えた上で、その死因推定の説明として「自殺を図ったものと見られます」というのはアリではないか。原因を断定したくない場合の表現としては適切かも。「自殺を図った」は本人の意思であり、事実として(結果として?)死んだこととは関係ないと思う。

○(静岡放送・I氏)
「自殺した」と「自殺を図った」を明確には区別していない。ただ、「自殺を図り死亡しました」「自殺を図り意識不明の重体となっています」というような表現で原稿を書くことが最も多く、既遂・未遂のどちらかは、(文章によって)明らかにしている。


というようなことで、人数から言うと、

×「図った」は死ななかった時のみ・・・・・・・・・・・・・11人(7社)
△ 原則、「図った」は死ななかった時のみだが両方使う・・・4人(4社)
○ 死んでも死んでなくても「図った」を使う・・・・・・5人(5社)


という結果になりました。確かに「『自殺を図った』は、未遂の時にしか使わない」社もかなりありますが、現状ではすべての社(や個人)がそう思って使っているわけではないようです。共同通信のN氏がおっしゃるように、もともとは、「マスコミ側の使い分け」として出てきた表現ではないでしょうか。

2003/3/13



◆ことばの話1104「乗り物の数字」

またSアナウンサーから電話です。

「道浦さん、今日のニュースファイルで、『ステルス戦闘機F117』というのが出てくるんですが、その原稿の数字の横に『イチイチナナ』とルビが振ってあるんですが、こういった戦闘機の番号の読み方はどうすればいいんでしょうか?」

「うーん、原則は普通のその数字を読めばいいんじゃないの。つまり『F117』ならば『エフ・ひゃくじゅうなな』でいいと思うよ。」

「そうですか・・・」


次の日、報道のTデスクが、

「つかぬことを伺いますが・・・。」

と話しかけてきました。

「昨日もステルス戦闘機の番号について、Sアナがお聞きしたと思うのですが、また出てきましてね。偵察機の『U2』なんですが、これは『ユーツー』でしょうか?それとも『ユーに』でしょうか?」

「うーん、原則は日本語読みで「ユーに」でいいと思うよ。国産ロケットで『H2』ってあるけど、専門家は英語読みで『エイチツー』って言うけど、用語懇談会放送分科会では、『エイチに』と読もうということになってるから、数字が一つでも、基本は日本語読みでおかしくはないと思うよ。」

「そうですか、分りました。」


ちなみについ先日は、イラクのミサイル「アッサムード2」について、「ウエークアップ」という番組のYプロデューサーから、

「この『アッサムード』の後ろについている数字は、英語読みで『ツー』でしょうか?それとも日本語読みで『に』でしょうか?」

という問い合わせがありました。これも、

「『に』でいいと思うよ」


と答えたのですが、それにしても、こういった戦闘機やミサイルの名前が頻繁に出てくるということは、やはり戦争が近づいている足音の一つ、と言えるのではないでしょうか・・・・・。

2003/3/13


(追記)

メモが出てきました。2月7日の朝4時42分、NNN24で放送されていた「乗り物の数字」です。沖縄の嘉手納基地に終結した、米軍の軍用機の機種名です。

*「E−6(イー・シックス)」
*「WC―135(ダブリュシー・ひゃくさんじゅうご)」


米軍ですから、どうしても現地での英語が入り込んでしまうのでしょう。 そして、2月20日の夕方6時21分「ニュースプラス1」で、韓国の地下鉄放火事件で被害に遭った地下鉄のことを、

「1080(イチマルハチマル)号車」

と言ってました。現地の特派員だったと思います。あまり、数字の読みを統一しようなんてことは、考えてないように思います。

2003/3/14



◆ことばの話1103「国外と海外」

イラクへの攻撃が秒読み段階に入っている日本時間の3月13日、アメリカと歩調を合わせていたイギリスが、査察延長の条件として6項目の提案をしました。その提案の中に、イラクの核技術者30人に対してイラク国外で聴聞を行なうという項目がありました。 それを伝えていた『ズームイン!!SUPER』では、

「海外で」

という表現をしていたのです。果たして、「国外」と「海外」は同じ意味と考えていいのでしょうか?イラクの査察も大切ですが、こちらも大切です。
四方を海に囲まれている日本においては、もちろん

「海外=国外」

ですが、ご存知のようにイラクは四方を海に囲まれているわけではありません。それどころか、ただ一か所、海(ペルシャ湾)に面した所は本当にわずかの面積しかありません。そこを通じて出て行く「海外」はもちろん「外国、国外」ですが、陸地伝いに出て行く「外国、国外」は果たして「海外」と呼んでいいのでしょうか?
『新明解国語辞典』を引きました。

「海外」=(四面海に囲まれている日本にとって)「外国」の異称。
「国外」=その国の領土の外。

ほらね。日本のような四方を海に囲まれた国でのみ、「海外=国外」が成り立つのですよ、やはり。でも、『新潮現代国語辞典』によると、

「海外」=(1)海を隔てた外国。(2)領土外の海を隔てたところ。外国。
「国外」=国の領土の外。


うーん、『新明解国語辞典』のように明確には書いてないけれど、やはり「海外」には「海を隔てて」という意味が含まれるようですね。
「海外=国外」という考え方は、日本人が「国外」のことを考える時に、つい日本人目線で見てしまうことの、一つの表われではないでしょうか。

2003/3/13



◆ことばの話1102「しょってる」

また、死語を見つけてしまいました。
アナウンス部の部室に、女性アナ3人(Uさん、Yさん、Mさん)と私とHアナがいた時の話。何かの拍子で私が、

「そういう時、『しょってるうー!』」って言わない?」
と言った時に、HアナとUアナは、

「ああ、そう言えばそんな言い方ありましたね。」
「魔法使いサリーちゃんに出てきそうな感じですね。」


と答えたのに対し、20代のYアナとMアナは、

「それ、どういう意味ですか?聞いたことありません。」

という反応。改めて辞書(『三省堂国語辞典』)で「しょってる」を引くと、俗語として、

「うぬぼれていること」

と出ていました。使い方としては、例えば、

「どう?これ新作のスカーフなんだけど、私によく似合うと思わない?」
「しょってるわねえ。」


というような感じだったと思うのです。この言葉の使い手は主に女性のような気もしますが。昭和40年代ぐらいに使われていたのではないでしょうか?あ、青春モノドラマでは男の子も、

「チェッ、しょってんじゃねえぜ」

とか使っていたような気がしてきたぞ。石原裕次郎などは言いそうだな。そうすると昭和30年代からかな?

Googleで「しょってる」をインターネット検索したところ、2430件出てきましたが、その中には「住宅ローンしょってる会」とか「ランドセルしょってる」など、「物理的に物を背負っている」の意味での「しょってる」が多くありました。「しょってる、うぬぼれる」で検索すると、なんと1件しか出てこず、しかもそれは「仙台弁」のホームページで、そこではまさに「しょってる=うぬぼれる」と出ていたので驚きました。
それにしても「しょってる」が死語だと気づいたのは、オレだけかな。
チェッ!しょってるぜ!!

2003/3/10


(追記)

実はこの話、MアナウンサーがUアナウンサーに対して、

「今日はきれいですね!」

というようなことを言ったのに対して、Uアナが、

「何、おべっか使ってるのよ」

と答えた様子を見ていた私が、なんとなく「しょってる」という言葉を思い出したのです。なぜ人を誉める様子を見て、「うぬぼれ」という意味の「しょってる」を思い出したのか。後日、謎が解けました。つまり、人から無理な感じで誉められたら、

「おべっか」「お追従」「お世辞」

ということになるのですが、自分で自分のことを、無理矢理、誉めたような状況だと、

「しょってる」

になるから、だと思います。

「自分で自分をオーバーにほめたいです」

という状況を周りから見ると、

「しょってる」

ということですね。

2003/3/13



◆ことばの話1101「しもたげな」

2月9日、滋賀県のマキノスキー場に、保育園に通う子どもの父母会主催で「雪遊び」に行きました。その帰りの貸し切りバスの中で、子ども向けのビデオを見る機会がありました。「日本昔話」のようなビデオだったのですが、その中のおじいさんの語り口で、気になった言葉がありました。

「なくなってしもたげな」

この「げな」って一体どこの方言?と言うか(なんか、若者の「てゆーか」みたいだ)どういった素性の言葉なのでしょうか。現代で使うことはありませんよね、昔話の中ぐらいでしか。少なくとも私はそうです。 同じように昔話で聞く「語尾」で似たような言葉には、

「そうな」

があります。「なくなってしもうたそうな」でも意味はきっと同じですよね。状況から考えると、この「げな」と「そうな」は「伝聞」の語尾(終助詞か?)のように思えます。 『日本国語大辞典』で「げな」を引いてみました。これが結構たくさん意味が載っているので、関係ありそうなところを引き写します。

「げな」
(そのような様子、気配を表わす「げ」に断定の助動詞「なり」の変化した形が付いてできたもの。活用語の終止形に付いて、推測または伝聞の意を表わす)

(1) そのような様子だ、という推測の意を表わす。・・・ようだ。・・・らしい。
(2) 他から伝え聞いたことを表わす。・・・だそうだ。・・・ということだ。

(語誌)「げ」は形容詞の語幹、名詞などに付く接尾語に由来し、中世(室町時代)以後、終止形に付く助動詞化した用法が現われるようになったものである。はじめは(1)の様態の推量を表わす意味でのみ用いられたが、近世のはじめ頃には、次第に(2)の伝聞の意に転じるようになった。文章語として定着しないまま、江戸後期に発達した「そうな」に取って代わられ、衰退していった。


なんと!「げな」は室町時代以降に使われていたのか! 昔話の代表格の「御伽草子」は、室町時代ですよね。また昔話は原則的には「語り継がれてきたもの」ですから、「文章語として定着せずに、江戸時代後期に『そうな』に取って代わられた」というのもうなずけます。 つまり、昔話として語り継がれた間は「げな」が使われた。「語り継ぐ」のは「伝聞」ですから、これも納得が行きます。そういった語りべ(といっても職業的な語りべではなく、おじいさん、おばあさんが孫に聞かせるという意味で)は、文字を知らないことも多かったことでしょう。そして識字率が上がって、文章として昔話を定着させる頃になって出てきたのが「そうな」。そう言えば、昔話の語尾には「げな」と「そうな」がありましたよね。意識していなかったけど。
そうか、「げな」→「そうな」という、そんな歴史があったのか。

「げな」の項目にはこの他、(方言)として、伝聞・推量の助動詞「げな」が使われている地域が列挙されています。

伊豆八丈島、尾張、長州、土佐、新潟県佐渡、福井県遠敷(おにゅう)郡、山梨県南巨摩郡、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、兵庫県、奈良県、島根県、岡山県、吉備郡、広島県、山口県、防府市、徳島県、美馬郡、香川県、愛媛県、越智郡、高知県、福岡県、福岡市、久留米市、長崎県、熊本県、八代郡、宮崎県、鹿児島県。

おお!西日本では「げな」がしっかり使われているではないか。西日本は、

「げな文化」

と呼んでもいいのではないでしょうか。東日本ではまったく使われていませんね。 静岡なんか私の感覚では、今でも「げな」を使っていても、全然不思議がないような感じがします。 あ、三重県か!三重県上野市生まれの私は、「げな」を聞いたことがあるのを、今思い出しました!亡くなった明治末期生まれの祖母が使っていました。
「そやげな」(そうなんだって)という言葉をよく耳にしました。今、甦ってきました。おばあちゃん、ありがとう! 広島も使いそうだ。広島出身の中元アナに聞いてみよう。

「おじいさんは元気かや?」
「『げな』で元気!だそうな。」

あ、これは「ゼナ」だげな。コマーシャルか。

2003/3/14

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