◆ことばの話1100「日本語と日本語らしさ」
またまた去年(2002年)の話で恐縮です。
12月6日、大阪の桃山学院大学において、昭和女子大学教授で東京大学名誉教授の池上嘉彦教授(京都生まれ)の講演会が開かれました。ネットでそのおしらせを見つけて、一般の人も自由に無料で聞けるというので、行ってきました。その話をメールでYeemarさんにしたら、「ぜひどんな内容だったか、教えてください」と言われたので、ずいぶん遅くなりましたが、その講演の様子・感想を書きます。講演のテーマは表題の「日本語と日本語らしさ〜外からの視点・うちからの視点」です。講演の内容を要約します。
日本語というのは、擬人法的な表現を避ける傾向がある。英語などは、
「The heat makes me feel languid」(暑さが私にからだがだるいと感じさせる)
というふうに、「暑さ」を主語にした形の文章を書くが、日本語で言うと、
「暑くてだるい」
になってしまう。また
「What makes you think so?」(何があなたをそう考えさせるのか)
は、普通の日本語で言えば、
「どうしてあなたはそう思うの?」
だ。こういった無生物を主語にしない言い方は、日本語らしい特徴である。これは漱石も言及している。また東大言語学科の初代教授であるB.H.チェンバレンは、
「日本語の欠点は、擬人法を避けていることだ」
と言っている。
こうした日本語は、16世紀以降に日本にやってきたヨーロッパ人たちにとっては、非常に難しく理解しにくい「悪魔の言語」であった。池上先生が1977年に訪ねたフランス南部のバイヨンヌという町のバスク博物館では、バスク民族の歴史を絵解きで説明した展示に、なぜか富士山を背景に踊っている悪魔サタンの絵が描かれていた。その説明には、
「サタンはかつて日本にいた。その後でバスクの土地にやってきた」
と書かれていた。
なぜ日本語は「悪魔の言葉」とされたのか?実は、イエズス会のオヤング神父が日本語の文法書を編纂したが、「日本語の書き言葉の表記の仕方は、とても手におえない」と投げ出してしまった。神父によればこの書き言葉こそ、悪魔によって考案されたものだと、スタインメッツ著『日本と日本人』(1859)に記されている。
また、日本語は「文法のない言葉」とも見られている。それは「ウナギ文」の不可解さにも表わされている。(「ウナギ文」とは「君は何を注文する?」と聞かれた時の答え、「僕はウナギだ」の主語は何か?というような文法上の問題。)これも日本語の特徴か?
しかし、英語にもウナギ文はあると、小島義郎著『日本語の意味・英語の意味』南雲堂)で紹介されている。実際、池上先生も、英文法の権威であるロンドン大学のグリーンバーグ教授が、「ウナギ文」を使う現場を目撃したという。それはロンドン大学の食堂で、ウエイトレスが、誰が何の注文をしたか注文が分らなくなった時に、グリーンバーグ教授が、
「I'm fish」(私は魚だ)
と言ったというもの。それを指摘すると、グリーンバーグ教授は、
「今、言ったかね?」
と聞き返した後、しどろもどろになりながら、
「あれは、だらしない(sloppy)表現だ」
とおっしゃったという。おもしろいエピソードですね。
さらに問う、日本語の特徴は何か?ここで「日本語話者好みの言い回し」のいくつかを紹介することで探っていくことにする。
例えば「輪郭をぼかした表現」。たとえば、
「100円切手を二枚ほど下さい」の「ほど」
「今晩三人ばかりで、そちらにうかがわせていただいてよろしいですか?」の「ばかり」
「お茶でも飲みませんか」の「でも」
といった具合。
そして「モノ」的表現と「コト」的表現。つまり、
「あなた、太郎さん好き?」
「あなた、太郎さんのこと好き?」
の違い。ここから導き出されるのは、「関係代名詞構文のような<モノ>的表現よりも、『状況』を示す<コト>的表現を好む」という日本語の特徴。
また、川端康成の『雪国』の有名な冒頭部分、
「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。」
というような、<ナル>的状況把握・表現を好むのも日本語の特徴である。
ルイス・フロイスが『ヨーロッパ文化と日本文化』(1585年)にこう書いている。
「われわれにおいては、絵画に多くの人が描かれていればいるほど、(見る人の)目を楽しませる。日本では、それが少ないほど喜ばれる。」
「ヨーロッパ言語は明瞭が求められるが、日本では、あいまいが喜ばれる」
つまり日本では「省略の美学」があるということ。
そしてその省略された部分というものは日本人にとって「共通認識」の部分であり、「共通認識できていない外国人」にとっては「日本語は悪魔の言語」になってしまうのではないか。
言語以外の諸分野での<相同性>(=「共通認識」)としては、樋口忠彦・新潟大学教授のいう「蔵風得水(ぞうふうとくすい)」型の景観(=三方が山で、一方が開けていて、川があって・・・という地形は日本人が好む地形)や、山折哲夫さんがいう「土地に籠る神」(=母胎のイメージ=落ち着く)というのも、日本人が好むものである。
というような内容でした。ちょっと箇条書き風なので、わかりにくいかもしれませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。
また講演では、昔NHKで放送された「言葉に関する番組」のビデオが流され、その中に、「ウナギ文」の仲間として挙げられた、
「私の娘は男です」
という文章がありました。え?「娘が男」ってどういうこと?と思われるかもしれませんが、これはどういったコンテキスト(文脈)・状況で発言されたものか、わかりますか?私は、答えを見つけるまでに、ちょっと時間がかかりました。
そうです、「私の娘(のところで生まれた、私の孫)は男です」という意味です。
「いやあ、うちの息子(のところの孫)は女なんですよ。」
「そうですか、うちの娘(のところの孫)は男なんです。」
というような会話なんでしょうね。性転換はしていません。
講演が終わってから、係の先生が
「このあと場所を変えて懇親会を開きますので、皆様ぜひご参加ください」
と案内していたので、「立食パーティーか何かだろう」と思って行ってみると、10人も入ればもう一杯!というような、大きなテーブルが真ん中にデーンとある、
「重役会議室」
みたいなところで、学生の姿はおろか一般聴衆の姿もまったくなし。主催者の桃山学院の先生方が数人と池上先生しかいらっしゃらず、部外者は私一人というような状況で、「理事長秘書」のような女性が紅茶を運んできてくださいました。大変恐縮しました・・・。
でもせっかくのチャンスですから、少しお話を伺うことができてた上、質問などできて、かえってラッキーでした。特に、レジュメには載っていたけれども時間がなくなって詳しく伺えなかった点について、参考図書なども聞けて有益でした。その参考図書というのは、新潟大学教授の樋口忠彦著『日本の景観』(ちくま学芸文庫、1993年第一刷発行)です。まだ、実はパラパラとしか読んでいないのですが、風水の言葉である「蔵風得水」という言葉に着いて詳しく書かれています。すごく興味深い本です。
といったところです。たまに講演を聞きに行くと、すごくためになりますよね!
3か月も経ってから書いて、すみませんでした・・・。
2003/3/12
◆ことばの話1099「ひとつ屋根」
その昔、「ひとつ屋根の下に」というドラマが流行った時に、このドラマをよく見ていたSアナウンサーがこの言葉を言う時のアクセントが気になったことがあります。彼は、
「ひとつ屋根の下に(LHL・HLLLLL)」
つまり、「ひとつ(LHL)」で切って読んでいたのです。私の感覚ではこれは、
「ひとつ屋根の下に(LHHHL・LLLLL)」
で、「ひとつ屋根(LHHHL)」は一つの複合語としてコンパウンドして読むものだと思っていました。だって、「ひとつ」で切るアクセントだと、
「ひとつ、屋根の下。ふたつ、風呂の中。みっつ、みんなの人気者」
みたいに、まるで「数え歌」のような感じになりませんか?
「ひとつ屋根」は、もう一つの言葉だから当然コンパウンドさせるべきだと、強く私は主張したのです。
でもこの「ひとつ屋根」は、残念なことに『NHKアクセント辞典』にも『新明解アクセント辞典』にも載っていないんです。
その後もずっと、この言葉に注意しているのですが、耳にするのは、私のようにコンパウンドしないで、Sアナウンサーのように「ひとつ」で切るアクセントばかり。そのドラマでのアクセントも、そうでした。でも、誰がなんと言おうと、私は、コンパウンドした「ひとつ屋根」を使おうと思っています。やーね。
2003/3/13
(追記)
最近、NHKで昔の番組の再放送をよくやっています。テレビ放送50年ということで。4月21日、私が確か高校生時代(1970年代後半)に見たドラマ、「となりの芝生」をやっていました。懐かしいので見ていると、主人公は前田吟と山本陽子の夫婦。そして前田吟の母、山本陽子の姑役が、沢村貞子。これが憎々しい好演技!
その沢村貞子のセリフの中に、
「ひとつ屋根の下」
がありました。アクセントは、
「ひとつ・屋根の下(LHL・HLLLL)」
でした。沢村さんは、テレビの「チャンネル」を頭高アクセントの
「チャンネル(HLLL)」
と言っていました。今なら平板で「チャンネル(LHHH)」ですか。あ!もう「チャンネル」ってないんだ。リモコンだから。
(参考)「平成ことば事情365『チャンネルを回す』」もお読みください。
2003/6/1
◆ことばの話1098「死体と死骸」
突然ですが、「死体」と「死骸」の違いは何でしょうか?常識的に考えると、
「人間は死体、それ以外の動物は死骸」
のような気もしますが、人間でも「死骸」を使うケースもありそうです。大きさによって違ったりするのでしょうか?
と思っていたら、3月8日の深夜(実際には3月9日の午前)に放送していたNHKの「爆笑オンエアーバトル」というお笑い番組で、「アルファルファ」というコンビのネタの最後に、こんなセリフがありました。
「あ、言い忘れてたけど、その獅子舞、ネコの死体、くわえてる」
まあ状況の説明は省きますが、要は、「ネコの死骸」ではなく、「ネコの死体」と言っていたということですね。
『新明解国語辞典』で引いてみました。
「死体」・・・命が無くなって、そこに横たわっているからだ。
「死骸」・・・(人間・けだもの・虫などの)死んだからだ。
ありゃ?やはり人間でも「死骸」は「あり」ですか。『広辞苑』は?
「死体」・・・・死んだ人や動物のからだ。死者の肉体。死骸。
ありゃ、「死骸」と同じですか。
「死骸」・・・人や動物の死後の肉体。死体。なきがら。
「死骸」と「なきがら」は、なんか結びつきません・・・。
『日本国語大辞典』は??
「死体・屍体」・・・死んだ人や動物のからだ。なきがら。しかばね。死骸。しにからだ。
「しにからだ」というのは初めて聞きました。
「死骸・屍骸」・・・
(1)死んだ人や動物のからだ。なきがら。なきがら。しかばね。したい。しにからだ。
(2)使い尽くして後に残った不用の物。くず。かす。
うーん、あんまり違いはないようですねえ。よく考えると「遺体」もあれば「遺骸」もありますからね。結論!どちらでもお好きな方をお使いください。でも、そちらも「持ち込み」はご遠慮ください。
2003/3/12
◆ことばの話1097「赤米と黒米」
外のスタジオでナレーション録音中のMアナウンサーから電話です。
「すみません、古代米の『赤米』は『あかまい』ですか?それとも『あかごめ』ですかね?それと『黒米』はどうでしょうか?」
「ああ、それ。たしか『あかまい』という『湯桶読み』だったような気がするけど・・・『新明解国語辞典』には載ってないなあ・・・」
一度電話を切って、『日本国語大辞典』を引くと、「あかまい」は空見出しで「あかごめ」の方に説明がありました。また、「黒米」は「くろごめ」「くろまい」ともに立項されていて「玄米」と書いて「くろごめ」とも読むようです。
で、両方「方言」としても取り上げられていて、「くろごめ」は東日本方面、「くろまい」は西日本方面で使われているようです。
つまり・・・どちらの読み方でもよいのではないでしょうか。Mアナウンサーには、
「『日国大』には『あかごめ』『くろごめ』のほうが主流のような感じで出ているねえ。」
「じゃあ、『あかごめ』『くろごめ』で行きますか。」
ということになりました。
インターネット、Google検索してみました。
あかまい・・・・・126件
赤米・あかまい・・・98件
あかごめ・・・・・128件
赤米・あかごめ・・・94件
くろまい・・・・・・102件
黒米・くろまい・・・・73件
くろごめ・・・・・・127件
黒米・くろごめ・・・・70件
(3月12日しらべ)
うーん、ほぼ互角!やや「ごめ」>「まい」のようですが、その差は本当にわずかです。
どちらが正しいのか、ご存知の方、ご一報ください!(最近、このパターン多いなあ。)
2003/3/12
(追記)
網野善彦氏と宮田登氏の対談集『歴史の中で語られてこなかったこと〜おんな・子供・老人からの「日本史」〜』(洋泉社新書、2001、12、21)の中に「畑作とアズキ」(P250〜252)という項があり、そこに出て来るのは、
「赤ゴメ」
です。やはり「赤ゴメ」ですか。これによると、「紅白歌合戦」のような「紅白」の原形が、日本的習俗としての「赤ゴメ」に、既に見られると書かれています。
2003/4/15
◆ことばの話1096「村八分」
BSE、いわゆる狂牛病関係の取材をしてきた記者が、あわてて駆け込んできました。
「道浦さん、『村八分』という言葉は使ってもいいんですか?」
「あまり好ましくはないね。」
「インタビューした相手が言っちゃってるんですけど・・・」
うーん、まずいなあ、どうしても使わないといけないのかなあ。
「村八分」をしてはいけないのはもちろんですが、そういう言葉を使ってはいけないのかどうか。なんか危ない感じがします。でも「使ってはいけない」とは、どこにも書かれていません。どうしましょ?
「村八分」というのはもちろん、その村の仲間から「仲間はずれ」にされることですが、以前どこかで読んだのですが、なぜ「村十分」ではなく「村八分」なのかというと、「葬式」と「火事」の時だけは、村の仲間から応援してもらえるからだそうです。「火事」はその家だけの話ではなく、他の家にも影響がありますから、当然、手を貸すでしょう。そして「葬式」ですが、これも死人が出るとその後の作業が大変だったことから、そうなったのでしょう。先日、父から聞いた話ですが、私の田舎(三重県名張市)では、ついこの間まで
「土葬」だったそうです。お寺にあるお墓の下には何も入っておらず、「亡骸」は、山の中にある「土葬場所」まで、月番の男たちの手で運ばれます。お棺は、「屈葬」なので「桶」のような形。これを「こえたご」を運ぶように天秤棒にぶら下げて、山道を登っていくそうです。落語の「らくだ」を彷彿させます。そして、「土葬場」に着くと、埋める場所を深さ2メートルぐらいまで掘るのですが、これが大変な重労働。しかも、村で亡くなった人を埋める場所は、3か所くらいを順番に回して掘っているので、最近亡くなった人を埋めたところを掘ってしまって、「前の人」が出てきたり・・・ということもあるそうです・・・。コワー。
まあ、そのくらい大変なので、「村八分」にされていても「そのくらいは手伝うか」ということなのでしょうかね。
話が逸れました。
結局この「村八分」発言のインタビューは・・・ああ!使ったのかどうか忘れたあ!
2003/3/13
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