◆ことばの話405「終戦記念日か、終戦の日か」
小泉総理大臣の靖国神社参拝が、結局8月15日ではなく、8月13日の夕方に行われました。この「8月15日」は一体何の日か。一般的には「終戦記念日」と言われています。中には「敗戦記念日」という人もあります。参拝した小泉総理の事前に用意されたコメントによると、小泉総理も「終戦記念日」という言葉を使っています。
しかし、そのニュースを伝えるNHKは、8月15日のことを「終戦の日」といっています。これは例えば、広島、長崎に原爆を落とされた8月6日、9日を「原爆記念日」とは言わず、「原爆の日」と言うのと同じで、「記念日」は喜ばしい出来事をなるべく長く覚えておきたいという気持ちで使われることが多い言葉だからだそうです。(NHK放送文化研究所「放送研究と調査2000年.8月号」)
そういえば、「結婚記念日」「開局記念日」「開校記念日」「サラダ記念日」・・・どれもめでたいというか、おめでたいというか、喜ばしいことに使われていますね。
そうすると、日本の場合は「敗戦」戦争に負けた日なので、めでたくはないですね。しかし、アメリカや中国などは、戦争に勝った日なので、「記念日」を使ってもよいのでしょうかね。使っているのかもしれません。韓国は「光復節」という記念日、日本の支配から逃れためでたい日です。でも日本も、「忌まわしい戦争が終わっためでたい日」という虎絵型が出来なくもありません。「敗戦記念日」はだめでも「終戦記念日」は、その解釈でもいけるかもしれません。
各新聞はどうか?というと、全国紙5紙(読・朝・毎・産・日)揃って「終戦記念日」を使っています。。
わがNNN系列はどうなのか?日本テレビの報道局に聞いてみると、
「"終戦記念日"を使っているが、特に"それしか使ってはいけない"というふうに統一はしているわけではない。」
ということでした。
つまり「終戦記念日」でも「終戦の日」でもよい、ということですね。
しかし、最近こんな本を見つけました。去年の12月8日(これも意識してるのかな?太平洋戦争開戦の日を)に初版が出た本で「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか〜8月15日と9月2日の間のはかりしれない断層」(色摩力夫著・黙出版)という、とんでもなく長いタイトルの本です。まだ全部読んではいないのですが、要は、終戦の日は8月15日ではなく、降伏文書に調印した9月2日だ、という話のようです。
そうなると、8月15日に「終戦記念日」とか「終戦の日」といった言葉を使うのも「おかしい」ということになりますが、まあ、これは今となってはなかなか納得できないことでしょうね。
ついでながらヨーロッパでは、ドイツとイタリアが降伏した日はそれぞれ違い、たとえばEUで「終戦○周年」などと祝う時にも、日付をどれにするかでなかなか意見が一致せず、難しいんだそうです。
2001/8/16
◆ことばの話404「一軒となりの家」
またもや、訳のわからない悲惨な事件が起きてしまいました。
8月8日、北海道広尾町で、留守番をしていた5歳と2歳の子どもが、家に入って来た24歳の男に刺し殺されたのです。このニュースを伝えるNNN24の女性キャスターが、おかしな文書を読み上げました。
「この事件で警察は、現場の一軒となりの家に住む男を逮捕しました。」
「現場の一軒となりの家」とは、つまり「一軒おいてとなりの家」なんでしょうか?それとも「隣の家」なんでしょうか?
もし、「一軒おいてとなりの家」ならば、普通「二軒となりの家」と言うでしょうし、「隣の家」ならば、わざわざ「一軒となりの家」と言うのはおかしい。
いずれにせよ、おかしな表現ですよね。
もしかしたら、北海道の方言でそういう言い方をするのでしょうか?
しかしこれでは一体どこの家か、正確にはわからないまま終わってしまいます。他局は「二軒となりの」と言ってました。やはりその方が分かりやすいでしょう。
2001/8/9
◆ことばの話403「シップ」
足をくじいたりした時に「シップ」をしますよね。漢字で書くと「湿布」。膏薬を塗った湿った布をあてる訳です。新明解国語辞典によると、
「湯・水・薬の液に浸した布を患部にあてて炎症を治療する方法。また、その布」
とあります。しかし、最近の若い人に
「シップってどんな字を書くと思う?」
と聞くと、
「カタカナでしょ。え?漢字あるんですか?」
という答えが返ってきます。「湿布」という漢字は思いつかないそうです。
確かにそのシップの具体的な商品名では「湿布」と漢字で書かれたものより「○○シップ」というカタカナで書かれたものが多いです。そのためか、この「シップ」を外来語だと思い込んでいる人もいるのではないでしょうか。
また、英語でも「スポーツマンシップ」のように「〜シップ」という形のものがあるために混同しているのではないでしょうか。もちろん、スポーツマンが貼るシップを「スポーツマンシップ」と思っている人は、いないとは思いますが、「フリチン」「フルチン」の「フリ」「フル」を英語だと思い込んでいる人と同じことが起こっているのではないでしょうか。
「シップ」で思い出すことと言えば、「おたまじゃくしはカエルの子」や「ごんべさんの赤ちゃんが風邪引いた」などの替え歌で知られる「リパブリック讃歌」。この「ごんべさんのあかちゃんが風邪引いた」の替え歌の最後は「そこーで、あわててシップした」だったのですが、この歌を教わった小学校低学年の時、「シップ」の意味が分かりませんでした。漢字を習っていたら、わかっていたかもしれませんね。
2001/8/10
◆ことばの話402「"いえ"と"うち"」
「家と書いて"いえ"と読むか、"うち"と読むか?」
そんな疑問が、新聞用語懇談会の中で出たことがありました。もちろん「家」は「いえ」「か」「や」「け」としか読めないのが常用漢字表の中での「読み」ですが、「家」と書いて「うち」と読みたい気持ちも分かりますし、そういった例もあるのではないかなあ、と思い、調べてみることにしました。
常識的に考えると、「いえ」は構造物・建造物としての家、「うち」は家庭、人のつながりとしての「家」という気がしますが、果たして、そうきっちり割り切れるのでしょうか。
「うちんち」という言葉もあります。これは「うちのうち」「うちのいえ」という意味ですがその場合は「家庭」のイメージのようで「うちんちは、もうUSJに行ったよ。」とも使えますが、「うちんち遊びに来る?」という場合は、構造物としての「家(うち)」を表しているようにも思えます。「ぼくんち」「きみんち」「じぶんち」なども同類です。
どうすれば「家」の読みが「いえ」か「うち」かがわかるかを考えていたところ、夏目漱石が思い浮かびました。漱石は、ルビをふった漢字が多かったような気がします。
そこで漱石の「こころ」を読んで、その中に出てくる「家」という字のルビが「いえ」になっているか「うち」になっているかを調べてみたのです。
結果から申しましょう。
「家(いえ)」=22回
「家(うち)」=22回
「家」(ルビなし)=19回
驚いたことに、漱石が「こころ」で使った「家」は「いえ」と「うち」がともに22回ずつという結果だったのです。
ルビのない「家」は19回出てきましたが、これが「いえ」か「うち」かに関しては、その直前に出てきた「家」が、どちらのルビを振ってあるかを調べました。その結果は、
「いえ」=8回
「うち」=11回
でした。やや「うち」がリードしたものの、ほぼ互角かな。
このほか、「うち」という読みと関連の漢字・ひらがなもピックアップしてみました。
「宅(うち)」=23回
「宅」(ルビなし)=22回
「うち」=2回
「家庭」(ルビなし)=1回
「住居(すまい)」=3回
「邸(やしき)」=1回
という結果でした。
その前後の文脈などについても抜き出して比べてみましたが、漱石は必ずしも「家庭=うち」「構造物の家=いえ」というふうなルビの使い分けをしていません。
また、「こころ」は新聞小説として掲載されたことを考えると、「このルビは漱石が書いたものではなくて、新聞社側が勝手に振った」ということも考えられなくもないですが、それだと、ルビのない「家」があるのはどういう理由からなんでしょうか。よくわかりません。
漱石の他の作品の場合はどうか、みてみましょう。
あまり長い作品は手間がかかるので、薄い本を選びました。
岩波文庫から出ている、「硝子戸の中」というエッセイ集。これも新聞に連載されたものを集めたもの(1915年=大正4年1月13日〜2月23日まで全39回、「東京朝日新聞」と「大阪朝日新聞」に連載)で、本文114ページ、解説も含めて138ページと手頃です。
ちなみにこの本のタイトルは「ガラスどのうち」です。「中」を「なか」と読まずに「うち」と読む。そうルビが振ってあります。これは新聞社側の意志ではなく、明らかに漱石の意志によるものでしょう。なんせタイトルですから。竹盛天雄さんという方が解説で、「中」を「うち」と読むか「なか」と読むかについて書いています。竹盛さんは「硝子戸の中」をそれが新聞に連載された順に、一から三十九までに分けました。少し長い引用になりますが、それによると、
原稿を調査し「翻刻と校訂」
(*「硝子戸の中」について画期的な調査研究をした岡三郎氏の「夏目漱石研究・第二巻・硝子戸の中〜校訂と解明」国文社1986、12)を遂行した岡三郎氏によると、漱石は、タイトルだけに限っていえば、一(*序)の場合には「うち」のルビをつけ、二・三・四・五にはルビをつけず、六から以下の七・十三・十四・十五・十六・十七・十九・二十五・二十八・三十・三十三・三十八・三十九には「なか」のルビをふっている。それ以外の八以下の各回では、ルビをつけていない。
しかし、漱石の気持ちでは「なか」とよまれることを前提としたものであろうと岡氏は推定している。「うち」から「なか」に変っていったのは、「朝日」が原稿にしたがわないで最初から「なか」のルビですすめたのに、漱石が妥協したのであろうともいっている。(荒正人氏もおなじように推定)
・・・(中略)・・・
「うち」と「なか」のよみわけは、いずれにせよ難しい。だが、この作品において漱石が連載進行につれて「なか」というよみを指定するようになったことは明らかである。漱石のユレがあるわけだが、それはまた作品の世界が、「中(うち)」から「外」をみての感想をかくということよりも、「中(なか)」にいて回想や瞑想にしずむ傾向をしだいに強くしていったこととかかわっているに相違ない。
(*部分は道浦が加筆)
「中」の読みの話に行ってしまいましたが、もとに戻って「家」を「いえ」と読むか「うち」と読むかです。「家」=「うち」「いえ」の状態は以下の通り。
「家(いえ)」=2回
「家(うち)」=25回
「家(ルビなし)」=14回
「宅(うち)」=27回
「宅(ルビなし)」=13回
この作品は「こころ」のあと、「明暗」の前に書かれたものだそうで、「こころ」では「家」という漢字のルビは、「いえ」と「うち」がほぼ同数だったの対し、その後、漱石の心境の変化があったのでしょうか、この作品では「いえ」はたったの2回、「うち」が25回と、圧倒的に「うち」に傾いています。
また、「こころ」の中でもよく使われている「宅(うち)」(=22回、ルビなしの「宅」が22回)がこの「硝子戸の中」でも27回(=ルビありの「うち」)使われています。ルビなしの「宅」は13回です。
このエッセイのタイトルの「中」も「なか」ではなく「うち」です。
エッセイ連載が進むなかで、漱石自身が「中」という漢字のルビも「うち」から「なか」へ変っていったそうです。ガラス戸の"うち"から"そと"の世界(=世間)を見ていた漱石の目線は、病が進むにつれて、自分の"うち"を見るように変っていき、遺作「明暗」につながるのではないでしょうか。「硝子戸の中」の最終回は、このように締めくくられています。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸(ガラスど)を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)とこの稿を書き終(おわ)るのである。そうした後で、私はちょっと肱(ひじ)を曲げて、この縁側(えんがわ)に一眠り眠るつもりである。
(二月十四日)
「いえとうち」に関して、おそらく最良の書を見つけました。
三省堂から出ている「一語の辞典」シリーズの中の、まさにそのままズバリの「家」(阪倉篤義・浅見徹著)という本です。
それによると「いえ」という語は、「万葉集」に151回出てくる中で、「家」という字が使われているのは2回だけだそうです。その他には「伊弊」「以弊」「宅」などの字があてられているということです。これは万葉集の中で使われている語彙の中では15番目に使用頻度の高い名詞ということになります。
その「いえ」が意味するところは、
【1】 住居としての建造物自体をさす「いえ」
【2】 家族の住居として、その生活を含めて言う「いえ」
【3】 自己の生活の場としての「わがや」を意味する「いえ」
【4】 家柄や家系の意味での「いえ」
というふうに、【1】の具体的に目に見える「いえ」から、抽象的な「いえ」へ、意味が広がりながら使われているようです。
「万葉集」では15番目によく使われた「いえ」が、平安時代の勅撰集「八代集」になるとその出現の度合いが急激に下がり、和歌では「万葉集」の「いえ」に相当するものとして「やど」という語が用いられるようになり、【3】の「わがや」の意味での「いえ」という言葉はあまり用いられなくなりました。
そして中世「枕草子」の頃、【4】の「家柄・家系」の意味の「いえ」が強く出てきた頃に、それと意味を分離するために「いえ」本来の「外部から隔離された自分たちだけの安息の場」という意味を示す語をほかに求め出し、その中で出てきたのが、上記の【3】の「いえ」の意味での「うち」でした。もともと「うち」という言葉はあり、「なか」と同じような意味でしたが、「なか」が平面的なのに対して「うち」は立体感があると、阪倉さんは書いています。
17世紀初めに編まれた「日葡辞書」には、「うち」に「いえ」という意味があるとは書かれていませんが、口語・俗語としては既に室町時代に「うち」は存在していたと阪倉さんは見ています。
近世になって近松・西鶴の作品では、「うち」は住居の内部に住む人々を指して言う語として使われており、一方「いえ」は「家屋として」の意味で使われることが多く、まだ、
「うち=いえ」という完全な同義語にはいたっていません。
そして近代。これは私が調べた漱石とも重なる部分があると思いますが、この本では、尾崎紅葉の「金色夜叉」をテキストとして取り上げています。「金色夜叉」は新聞小説として読売新聞に1897年(明治30年)〜1902年(明治35年)にかけて連載されたもので、「漢字につけられた振り仮名が原作者の意図通りである保証はないとはいえ、当時の様相にかなりよく添うものと推定できる」
と思われるそうです。
そして、「家」という字を「うち」と読ませたものには、
「家(うち)の中よりは戸外(おもて)の方が未だ可いので」
などのように、明らかに建造物としての家屋をさして言う例がみられることは注目に価する、と書いてあります。
「金色夜叉」ではこのほか、「内」という字で「うち」の意味(「いえ」の【3】の意味)を表していて、「いえ」と「うち」の差が曖昧になってきて重なり合って使われてきた頃に「宅(うち)」も進出してきたようです。
また、中根千枝「"家"の構造」(1968)によると「日本庶民に"家"という概念がはっきり出てきたのは、江戸中期であり、大正の頃からやや崩れはじめ、戦後になって急激に崩壊した」ということも紹介しています。
そしてこの本では、「家庭」という言葉は明治期、house、home、familyという西洋の文化・思想・概念が流入してきたことによって出来たとしています。
最後に、徳川宗賢「日本の方言地図」(中公新書20〜24ページ)をひいて、関西では「イエ」という人が多く、関東では「ウチ」を使う人が多いという話も出ています。そちらでは、上代には「や」と「いえ」とでは意味が異なり、前者は建物自体を指し、後者は「家庭」「家族」「家柄」などを表すことが多かったが、後に「イエ(家屋)」−「ウチ(家庭)」の意味の分担が行われるようになり、その「ウチ」が家屋の意味分野にまで進入したのが、関東・中部の「ウチ(家屋)」−「ウチ(家庭)」であると、徳川さんは分析しています。
結局、「家」と書いて「うち」と読むことは「ある」けれども、その使い分けについては、漱石に限っては、明らかではないようです。
学校で書く文章や、お役所の文章は別として、小説やエッセイなどで書く場合には「家」と書いて「うち」と読むことは、他にもたくさんあることでしょうね。
実際、昨日子どもに読んで聞かせたペンギンのピングーの絵本の中にも、「ピングーのお家」の「家」に「うち」とルビが振ってありました。この本は東京で作ったんだな、きっと。
2001/8/20
(追記)
6月30日、日本テレビの「恋のからさわぎ」という番組に出ている、福岡訛りの素人の女の子が、
「わがいえのように・・・」
という発言をしていました。たぶん、耳で「わがや」という言葉を聞いたのではなく、字で見て「わが家」ということばを覚えた際に「家」を「や」と読むとはつゆ知らず、「わがいえ」と覚えてしまったんでしょう。御愁傷様。
2001/8/27
(追記2)
1999年10月9日(土)22時過ぎに見た、NHK教育テレビ「関東大震災」。ナレーションは、私の大学のクラブの先輩でもある柿沼郭アナウンサー。その中で、大震災(1923年)の翌年に流行ったという「復興節」という歌を紹介していました。
その曲の歌詞が字幕スーパーで出ていましたが、
「家は焼けても江戸っ子の意気は消えない見ておくれ」
この「家」は「うち」と歌っていた、というメモが出てきました。やはり関東では「うち」が優勢だったんですね。
2001/8/30
◆ことばの話401「ネカマ」
6月に発行した「読売テレビ放送用語ガイドライン」の「性差をめぐる表現」に、「気をつけたい言葉」として、「ホモ」「レズ」「ニューハーフ」「おかま」「ホモ疑惑」といった言葉が上げられています。
そのうち「おかま」に関しては、
「"おかま"は男色またはその相手の俗称ですが、そもそも"尻"の異名でもあり、この言葉によって傷つく男性同性愛者も多いということを知っておくべきです」
と記されています。
そんな中、漫画雑誌(「ビッグコミックスピリッツ」小学館)で、インターネット時代を反映する、こんな言葉を目にしました。(「殴るぞ17・吉田戦車」)
「ネカマ」
これは、「ネット上で女性のふりをしている男性のこと」を指すんだそうです。つまり「ネット」十「おかま」=「ネカマ」という訳でしょう。確かに、ネット上では、自分の素性を明かすことなく、いわば別の人格の「もう一人の自分」を楽しむことも出来るのは確かですが、「性」まで変えてしまって「もう一人の異性の自分」を作るとは。いろんな言葉を考えるもんなんですねえ・・・。というより、実際にそういう人が居るからこそ、そんな言葉も作られる訳ですね。色んな人がいるんですねえ。
実に「目からウロコ」の言葉でした。
ちなみに、その漫画のオチは、ネット上で「イヌ」を装っている人が登場して、
「これはネイヌかな?」「ネイヌだろうね・・・。」
というものでした。
2001/8/21
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