◆ことばの話400「桃太郎のおじいさん・おばあさん」
400回です。毎度お読みいただいてありがとうございます。1999年の7月から書き始めてますので、約2年で400回。いいペースですね。タネはつきません。
私事で恐縮ですが、8月26日は私の誕生日。1961年(昭和36年)生まれなので、当年とって40歳。不惑です。四十にして惑わず。でも、しじゅう(始終)戸惑ってます。
で、今回は年齢に対する呼称の話。昔話の「桃太郎」に関連したお話です。
「桃太郎」は、
「昔々、ある所におじいさん、おばさんが住んでいました。」
というフレーズで始まります。子どもを寝かしつけながらこの話をしている時に、ふと思いました。
「桃太郎のおじいさん、おばあさんって、一体、何歳だったんだろうか?」
絵本に出てくるおじいさん、おばあさんは、好々爺・老婆といった感じで、70歳代か80歳代に見えます。しかし、当時(と言っても、いつなのかはわかりませんが、少なくとも桃太郎の物語が出来た室町時代よりも昔だと思われます。)の平均年齢は、現代よりもずっと短かったはずです。現代日本人の平均年齢は、ちょうど今月(8月)3日に新聞報道された厚生労働省の調査によりますと、2000年の簡易生命表では、
男性 77.64歳、女性 84.62歳
ということですが、そんな「昔々」に、夫婦揃って70、80歳という人は珍らしかったのではないでしょうか。
そういったことから考ると、このおじいさん、おばあさんは、せいぜい50歳くらい、もしかしたら40歳代前半ではないか?という疑問が出てきました。
そこで、昔の平均年齢について書かれた資料はないか探してみました。
会社の図書室で、読売新聞社から出ている「人物・日本の歴史」という全集を見つけました。その各巻の最後に年表がついていて、そこに出てくる人物はすべて、亡くなった時の年齢が記されていました。そこで、時代別にそこに出てくるの人物の没年齢を、平均してみました。その結果は、
(年代) |
(人数) |
(平均年齢) |
(代表的な人物と没年齢) |
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5人 |
43.0歳 |
天武天皇(65) |
(673〜710年) |
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持統天皇(58) |
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11人 |
61.5歳 |
鑑真(56) |
(710〜794年) |
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阿倍仲麻呂(70) |
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大伴家持(68) |
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聖武天皇(56) |
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30人 |
55.8歳 |
最澄(56) |
(794〜1192年) |
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空海(63) |
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在原業平(56) |
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菅原道真(59) |
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藤原道長(62) |
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崇徳上皇(46) |
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平 清盛(64) |
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源 義経(31) |
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18人 |
62.2歳 |
源 頼朝(53) |
(1192〜1333年) |
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親鸞(90) |
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日蓮(61) |
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法然(80) |
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栄西(75) |
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源 実朝(26) |
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北条政子(69) |
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道元(54) |
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63人 |
51.4歳 |
後醍醐天皇(52) |
(1333〜1573年) |
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足利尊氏(54) |
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足利義満(51) |
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世阿弥(81) |
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一休宗純(88) |
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足利義政(55) |
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蓮如(85) |
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北条早雲(88) |
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今川義元(42) |
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尼子晴久(47) |
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毛利元就(75) |
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朝倉義景(41) |
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浅井長政(29) |
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武田信玄(53) |
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14人 |
45.9歳 |
上杉謙信(49) |
(1573〜1603年) |
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織田信長(49) |
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豊臣秀吉(63) |
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長宗我部元親(61)
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石田三成(41) |
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千利休(70) |
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足利義昭(61) |
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前田利家(62) |
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と、江戸時代に入るまでの平均年齢を計算してみました。位の高いお坊さんは長生きですな。鎌倉時代はちょっとデータが少ないのと親鸞が90歳まで生きたので、平均年齢を押し上げています。
このほかインターネットで、平均寿命に関するデータを探したところ、東京都立老人総合研究所の鈴木隆雄疫学部門長のページに、こんなデータが載っていました。
*縄文人の平均年齢=14〜15歳(但しここまで生きられたら、34〜35歳まで生きる)
*室町時代=15.2歳(階級間の差が出てくる)
*男女とも平均寿命が50歳を越えるのは、戦後の昭和23、24年のこと
なんだそうです。つまり昔は、乳幼児の生存率が低かったため平均寿命は短かったけれども、ある程度大きくなれば、そこそこまでは生きられたということのようです。
ただ、織田信長が舞ったことで有名な能のセリフで「人生わずか50年」というところから見ても、やはり室町時代ぐらいは、平均的には50歳ぐらいまで生きるのがフツウだったと思われます。
そこから考えると、やはり桃太郎のおじいさん、おばあさんは40歳代後半からせいぜい50歳と考えるのが妥当ではないでしょうか。
しかしもちろん、現代人の50歳を想像してはなりますまい。当時の50歳は、今の私達の目から見れば、相当「老けていた」と思われます。腰も曲がったりして。
そうすると、絵本に描かれた「おじいさん、おばあさん」も、外見は間違っていないことになります。それを見た私達の意識、現代人の常識が、その姿を「70〜80歳」に見てしまうだけなのかもしれないのです。
そもそも江戸時代でも、元服=大人になるのが15歳と、現在よりも実質的には10年ほど早いのですから、老いるのも早くて当然でしょうね。
ちなみに、8月8日の読売新聞・朝刊の「編集手帳」には、
1960年(昭和35年)当時の女性の平均寿命は、70.19歳
だと出ています。(先月下旬、東京都内の病院で、夫の精子と東洋人女性の卵子の受精卵で出産した60歳女性のニュースに関連して。)
2001/8/9
(追記)
聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんは「"新老人"を生きる〜知恵と身体情報を後世に遺す」(光文社・2001.5.30)という本の中で「新老人」という新しい概念を提示しています。それによると日野原さんの提唱する「新老人」というのは、
「75歳以上の元気で社会的に貢献できる"第三の人生"を過ごそうという、あえて言えば"エリート老人"」
というもののようです。そしてこの「新老人」のモットーは、
一、 愛し、愛されること
二、創めること
三、 耐えること
の三カ条だそうです。イギリスの詩人ワーズワースの詩にある「生活は簡素に、思いは高く」ということば通りの社会の実現を目指すんだそうです。「土光臨調」の故・土光敏夫さんみたいですね。
日野原さんは、成人病が、誤った生活習慣に基づく病気だということに早くから気づき、その名称を「生活習慣病」とするように早くから提唱したり、昭和29年(1954年)に東京国立第一病院とともに聖路加国際病院で、一週間入院という形で「人間ドック」を日本で初めて導入した方でもあります。
また日野原さんは、日本の平均寿命(1998年)は、男子が77.10歳、女子が83.99歳で世界一だけれども、健康年齢(寝たきりにならず、自立した生活が送れる年齢)は、男子が71.90歳、女子が77.20歳と、少し下がる、と指摘。(これも世界一だそうですが)この「健康年齢」のほうが、平均寿命よりも大事だと日野原さんは語ります。
このほか、現在65歳の男性の余命は、平均寿命から考えるとあと12年ぐらい、となると思いますが、実はそうではなくて、65歳まで生き延びた人はそれだけ健康管理も行き届いているので、あと17年生きられる、というデータがあるんだそうです。それによると、80歳まで健康な男性は、あと7年半、今85歳の人の余命は5.49歳。今90歳の人は94歳までというふうに、年齢が上がるほど平均余命もだんだんと上がり、長く生きれば生きるほど日本人男性のゼロ歳での平均寿命より長く生きられることになるんだそうです。
この本はなかなか、参考になりました。
2001/8/14
(追記2)
少し古いですが、2001年3月22日号の「週刊文春」に「"恍惚の答弁"宮沢喜一に預けていいのか"日本の財布"」という記事。ああ、そう言えば5か月前の財務大臣は宮沢さんだったな。81歳です。その宮沢さん、国会での居眠りの時間も増えている、というふうな記事の中で、老年精神医学に詳しい和田秀樹医師という人が、
「老年学では75歳くらいまでをヤングオールドと言いますが、それを過ぎるとオールドオールドに当たり、81歳というと、一般論としては衰える人が多いことになる。ただ痴呆さえなければ、読んだり書いたりする、言語性知能は意外に落ちないものです。」
というふうなコメントを載せていました。
今ごろ、そんなコピーが出てきたもので、忘れないように書いておきました。
2001/8/17
(追記3)
服藤早苗著「平安朝に老いを学ぶ」(朝日選書・2001.8.25)という「元気でそれぞれの立場で任務を果たしている老人たちの史料を提示する」というねらいで書かれた本を見つけました。著者の服藤さんは埼玉学園大学教授だそうです。1947(昭和22)年生まれ。
この本によると、平安時代の老人の境界年齢は四十歳だったとあります。それは、
「年齢を言祝(ことほ)ぐ算賀(さんが)儀は、四十歳からはじまり、五十歳、六十歳、七十歳と十年ごとに行われる。中国から導入された算賀は、奈良時代の霊亀元年(715)、長屋王邸で開かれた長屋王四十歳の算賀が初見史料であり、"賀五八(ごはち)年"の作詞が行われている。(「懐風藻」)ここでは、四の数を忌み「五八」と詠んでいる。五×八=四十である。算賀は、平安時代に貴族層から人生儀礼として定着するようになる。」
といったところからわかるというのです。
また「養老律令」では「三歳以下を黄(おう)、十六以下を小(しょう)、廿(にじゅう)以下を中(ちゅう)、廿一(にじゅういち)以上の男は丁(ちょう)、六十一を老(ろう)、六十六を、き("老"の下に"日"と書く)と呼ぶ」と書いてあるそうです。
その後「六十を"老丁"、六十五を"老き"とする」(続日本紀)ように、1歳繰り上がったということです。そしてこの年齢区分は、租庸調の、つまり税金と結びついていて、60歳〜64歳の「老丁」は、20歳〜59歳までの「丁」の庸・調の半分しか納めなくてでよく、65歳以上になると、まったく納めなくてよい、つまり国家の収奪から自由となり、本当の「定年」を迎えるのだそうです。8世紀のこの時代は、60歳からが老人、65歳からは課役負担がなくなり、80歳以上は老人扶養的な国家給付を受けることが出来るようになるということです。
またこの本では、8世紀の人口年齢構成についても触れています。沢田吾一「復刻奈良朝時代民政経済の数的研究」(柏書房1972、初刊は1927)の数字(3879人の年齢データ)を元に、服藤さんがパーセンテージを出した表が載っています。それによると、
0〜9歳 |
= |
24.6% |
10〜19歳 |
= |
23.3% |
20〜29歳 |
= |
17.3% |
30〜39歳 |
= |
13.9% |
40〜49歳 |
= |
9.5% |
50〜59歳 |
= |
5.7% |
60〜69歳 |
= |
3.9% |
70〜79歳 |
= |
1.5% |
80〜89歳 |
= |
0.3% |
90〜99歳 |
= |
0.03% |
100歳以上 |
= |
0% |
服藤さんは「19歳以下が五割近くを占めており、若年死亡率がいかに高かったかがうかがえよう」「現在と同じ平均寿命の算出方法を用いると、平均寿命は三十歳にも届かないであろう。」と述べています。
それにしても、平均年齢が30歳にも満たない時代でも、90歳まで生きた方がいたんですね。驚きです。
私もまだ40歳、まだまだ頑張らなくては!
2001/8/22
◆ことばの話399「視線を集めていました」
ある展覧会のニュースを読んでいた時のことです。展示されていた24カラットの大きなダイヤに、観客の注目が集まっていたというくだりの原稿が、
「訪れた人の視線を集めていました」
となっていたのですが、後輩のSアナウンサーが「ちょっとおかしくないですか?」と注文をつけてきました。理由は、「視線は"集める"ものではなく"集まる"ものではないか」というのです。
そこで、本番では
「訪れた人の視線が集まっていました」
という原稿にして読んだのですが、なんか、"すわり"が悪かったです。
ではこの場合、どんな文章がいいのか?色々考えてみました。
注目を集めていました。
注目を浴びていました。
注目が集まっていました。
興味をひいていました。
目を引いていました。
おおよそ、こんなところかと思いますが、「注目を集める」はちょっと畳語っぽいんだけれど、一番よく使われる言い方ですね。「目を引いていました」もよいと思いますが、最近は「目」とか「耳」とかが直接出てくる表現は、減ってきているように感じます。
最初のSアナの質問に対しての答えは、今考えますと、
「自然と"集まる"視線も勿論あるが、無理矢理にでも振り向かせる、力ずくで"集める"、あるいは圧倒的な魅力で"集める"視線もあるのではないか」
ということです。
2001/8/13
◆ことばの話398「フィルムとフイルム」
「ニューススクランブル」のナレーションを担当した後輩アナウンサーが、こう、質問してきました。
「道浦さん、カメラ=写真機の中に入れるのは"フィルム"ですよね。じゃあ、映画を撮るのに使っているのは"フィルム"ですかね、それとも"フイルム"なんでしょうかね?」
なになに?よく聞かないとよくわかりませんね。
要するに「イ」が大きいのか、小さいのかということのようです。「イ」が大きいと「フイルム」のリズムは4拍ですが、「イ」が小さいと「フィ」ということで「フィルム」は3拍になってしまいます。耳で聞いた感じが違いますよね。
辞書を引くと、確かに映画の「フィルム」は「フイルムとも」と書いてあります。大きい「イ」も使うわけだ。
もともとは、「film」という英語が日本に入ってきて、外来語という名の日本語になった時に、古くは「フイルム」と「イ」が大きく発音されたのでしょう。当時(明治時代かな)「フィ」という発音が日本人には難しかったからではないでしょうか。その後、原音に近い「フィ」という音に変わったと思われます。
そして、2種類の発音・表記が出てきたことで、「"写真"は小さい"イ"の"フィルム"、"映画"は大きい"イ"の"フイルム"」という「意味の分化」も起こったのではないでしょうか。
けれど、写真の"フィルム"も"フイルム"と、大きい"イ"を使う人も多いですね。それにフィルム会社の名前でも「富士フイルム」は、「イ」が大きいのが正式社名です。
実際現在も、写真の「フィルム」も、「フイルム」と大きい「イ」を使う人も、結構多いと思います。
で、結局後輩アナウンサーの質問にどう答えたかって?
「どちらでもいいよ」
と答えておきました。
2001/8/14
◆ことばの話397「牛丼」
ことば事情396で「吉野家」について書きましたが、397では、その主力商品の「牛丼」についてのお話です。
実はこの吉野家の牛丼が値下げになったニュースを報じた新聞各紙、よく見ると「牛丼」という見出しではなく、「牛どん」となっていたはずです。「丼」という字が、いわゆる表外字、つまり常用漢字表に記された1945字に、含まれていないのです。それで新聞などでは「丼」の部分をひらがなで書いて「牛どん」という「混ぜ書き」を行っているのです。
この「混ぜ書き」、例えば誘拐事件などで「拉致」の「拉」だけをひらがなにして「ら致」というような表記が、広く行われてきました。しかし「熟語の本来の意味が分からなくなる」など評判が悪く、新聞用語懇談会でもおととしから、表外字の中で使ってもよい漢字を選定しようという具体的な動きが起こり、この5月末の総会で、表外字のうち単独で使ってもよいとする漢字39字を決めました。その39字の中に「丼」も入っています。そのほか、「鍋」「虎」「柿」など、
「えっ、この漢字は常用漢字じゃなかったの?」
というようなものもあります。常用漢字以外でも、「脇」「磯」「鶴」など、いわゆる「人名漢字」に含まれているものは、普段ごくごくフツウに使っているので、よけいにそういった感が強いです。
去年私は、表外字だが使える漢字の候補に上がっていた50字ほどについて、若い人たちがどのくらい読めるのか、読売テレビ社内と大阪外国語大学の学生さんに協力してもらって、180人ほどのデータを集めました。その結果、この候補の50字の中には、「丼」のように100%近くの人が読めるものと、「派閥の"領袖"」のように数%の人しか読めないものが混じっていることがわかりました。
話がそれてしまいましたが、要は「丼」という字も「使ってよい」ことになったので、今後は、吉野家のメニュー表と同じように「牛丼」という漢字表記が、テレビや新聞でも出て来るようになるだろうなあ、というお話でした。
(注)新聞用語懇談会での決定は、各社の用語使用の目安・基準になるものですが、強制するものではありません。また、単独で使ってもよいことになった表外字39字種は次の通りです。
闇・牙・鶴・磯・脇・駒・拳・虎・尻・餌・袖・須・腺・酎・賭・頓・汎・釜・妖・呂・鍋・瓦・玩・臼・錦・詣・鍵・虹・柿・腫・腎・誰・曽(曾)・枕・瞳・丼・斑・謎・嵐
2001/8/9
◆ことばの話396「吉野家」
平日半額のハンバーガーに続いて、外食産業での「デフレ」が続いています。
牛丼の「吉野家」が、牛丼・並を1杯280円という超低価格に値下げしました。
安いですよねー。
他の牛丼チェーン店も追随しているようですが、今回はこの「吉野家」という名前の表記についてです。
本物の吉野家は、「吉」の字の上の部分が「士」ではなく「土」なんです。つまり下の棒の方が長いんです。しかし、新聞の表記では、ほとんどの新聞は「吉」と、「士」にしています。唯一、朝日新聞だけは、本物と同じ「土」の「吉」を使っています。
一説によると、「士」は「し」という読みが「死」につながるので、それを忌んで、下の棒を長くして「土」にしているとか。
こういった同じ漢字なのに微妙に形が違う字のことを「異字体」と言います。それは旧字体と新字体という違いの時もあれば、それぞれ個人で生み出した字体ということもあるようです。
たとえば、以前書いたと思いますが、「渡辺」の「辺」という字の異字体は、「邊」「邉」など、なんと65種類もあるそうです。「島」も「嶋」のほかに、「山へん」が「鳥」の上に来ている「しま」もありますよね。こういった異字体にすべて対応していては、大変なことになります。どこまで対応していくのか?そのスタンスの違いが、朝日新聞と他の新聞との違いになっているのだと思います。
ちなみに、このワープロソフトでも、「士」の「吉」は出ますが、「土」の「吉」は出ません。
結局、「読めて意味が伝わればよい」ぐらいに緩やかに考えた方が、ラクなんですけどね。
それよりも「吉野家」で間違いやすいのは、「吉野屋」としてしまうこと。えっ?どこが違うのかって?よく見て下さい、「吉野家」の「や」は「家」で、「屋」じゃないんです。
でもワープロで一括変換すると、まず出てくるのが「吉野屋」なんです。これと同じようなことは、火事のニュースで出てくる「消火器」。これも最初の変換で出てくるのは「消化器」というケースが多いので、「消化器で火を消す」ケースも、結構出てきています。それでは、ホルモン焼きになってしまいます。要注意です。
2001/8/9
(追記)
2003年12月24日、アメリカ産牛肉でBSEが確認されたことで、1か月経った現在(2004年1月23日)も米国産の牛肉の輸入禁止は続いています。そのせいで、アメリカから牛肉を仕入れていた吉野家は、「焼鳥丼」など新メニューを出して当座をしのごうとしているのですが、今度は1月22日に、タイで「鳥インフルエンザ」が発生した恐れがあるということで、タイからの鶏肉の輸入も、当分の間停止されることになりました。輸入量の約35%、国内鶏肉消費量の10%を担うタイ産の鶏肉だけに、この影響も大きいです。なんか、肉は食べられなくなってしまうような。
さて、そういった記事の中に出てくる「吉」の字ですが、朝日新聞だけが「吉」の上の部分が「土」になっていると2年半前には書きましたが、現在は産経新聞も「吉」の上が「土」になっていました。
2004/1/23
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