◆ことばの話130「公平らしさ」
1994年に裁判官への任官を拒否された神坂直樹さんが、国に損害賠償を求めた裁判で、一審の大阪地裁が昨日(5月26日)神坂さんの訴えを全面的に退ける判決を言い渡したというニュースを、お昼の「ニュースダッシュ」で読みました。
その判決文で大阪地裁は
「最高裁は採用に当たって公正らしさを害しないか否かを重要な判断基準にしており、その判断が裁量権を逸脱したとは認められない」としています。
この中で私が引っかかったのは「公正らしさ」という部分であります。
裁判官がその資質として必要とされるのは「公正さ」であって「公正らしさ」ではないのではないか?「らしさ」とは必ずしも本物を意味するものではありません。いや、それどころか、たいていの場合は本物に似ているが本物ではない、いわゆる似非(エセ)の匂いの強いものであります。
裁判官に求められているのは「公正に見える外見」なのでしょうか?
この判決要旨の通りだとすると、「公正らしさのある、公正でない裁判官」と「公正らしさのない、公正な裁判官」のどちらを採用するかとなった場合、最高裁は「公正らしさを装った、公正でない裁判官」を採用してしまうのではないか?という危惧を抱くのであります。
そのあたり、大阪地裁はどう考えているのでしょうか?知りたいと思います。
なお、神坂さんは即日控訴しました。
2000/5/27
◆ことばの話129「珍古島」
噴火から2ヶ月。活動が収束したと見られる北海道の有珠山ですが、先日、洞爺湖温泉地区の人たちが一時帰宅を許されたというニュースを、現地からの生中継でやってました。
その時に女性レポーターが口にしたのが
「ちんこじま地区の人たちは・・・」
という一節でした。
一瞬、耳を疑いましたが、字幕スーパーも「珍古島」と出ています。こんな時に不謹慎とは思いましたが、やはり「ちんこじま・・・・」と、つぶやいてしまいました。
この地名の語源は一体何なんでしょうか?
去年、沖縄にある「漫湖(まんこ)」という湖が、湖沼の自然を守る「ラムサール条約」で認定されたというニュースのとき、NHKが字幕では「漫湖」と出しながら、ナレーションでは「認定されたのは“この湖(みずうみ)”で・・・」と読んで、“まんこ”というふうには読まなかったことを取り上げましたが、今回は全く逆と言えるでしょう。もちろん、読んで当たり前なのですが。
しかし、関西出身の女優の紅萬子(くれないまんこ)さんは、東京のテレビやラジオに出る時は、芸名を変更させられたとも聞きました。
この手の話では、今から10年ほど前だったでしょうか、夜のニュースで出てきた、殺人事件の被害者が、在日中国人の方で、姓が「王」名が「命綱」。読みは日本語読みで「おう・めいこう」さんだったことがありました。本人には何の関係もないのですが。「おーめーこー」になってしまいます。この時のアナウンサーが関西出身だったので、「これは、ちょっと読めない」と、結局「殺されたのは、王さんで・・・」というふうに下の名前を言わなかった事がありました。
これにはさらに後日談がありまして、翌日の朝のニュースの担当アナウンサーは、鳥取県の出身。なんの衒(てら)いも恥らいもなく「殺されたのは、“おーめーこー”さんで・・・」と読んだという事です。
また、後輩のHアナウンサーは、5月5日のこどもの日のニュースで「今日は端午の節句、・・・」とここまで読んだ所で、のどがつまってしまい、思わず「スッ・・」という音が漏れてしまった為に、テレビを見ていた人たちには「今日は端午のセックスッ・・・」と聞こえたということもありました。彼は、「まずいっ!」と思ったそうですが、「ここで、言い直すと余計に変な印象を持たれてしまう」と考えて、あえて、言い直さなかったそうです。まあしかし、「セックス」なくして「こども」はない、ということでしょうか。
2000/5/26
◆ことばの話128「わたしの中では・・・」
今朝(5月24日)の朝刊各紙に、文化庁が昨日発表した平成11年度の「国語に関する世論調査」の結果が載っていました。
各紙の見出しは「あいまい言葉、若者層で浸透」(日本経済新聞)「“国語の乱れ”86%が感じる」(産経新聞)「ぼかし言葉、若者浸透」(読売新聞)というふうなもの。
調査結果によると、
「お荷物のほう
、お預かりします」
「鈴木さんと話しとかしてました」
「わたし的には、そう思います」
「とてもよかったかな、みたいな・・・」
といった用法を、特に10代、20代の若者がよく使っているとのこと。
「わたし的には」は10代女性の46%、「話とかして」のいわゆる「とか弁」は10代女性の54%が、そして「〜みたいな」は10代男性の33%が使うと答えたそうです。
すでにここ数年、こういった言葉についてはこの「ことばの話」や、「ニューススクランブル」の「平成ことば事情」の中でも幾度となく取り上げてきたのですが、上にあげられた以外にも最近よく耳にする、似たような言葉があります。それは
「わたしの中では」あるいは
「自分の中では」です。
これは「わたし的には」とよく似ているのですが、使う年齢層が「やや上」です。大体、20代半ばが中心でしょうか。
「その出来事は、わたしの中では、すごい印象に残ってるんです。」
「あの優勝は、自分の中では、やっぱり大きなものって言うか・・・」
というふうに使われます。
従来ならば「わたしにとっては」「自分にとって」という表現をしたところなんですが、
「〜中では」とすることで、当事者である自分の気持ちまでも客観視しているようなニュアンスが出てきます。そう思っている自分を見つめる自分。
思いっきり熱中し没頭することが“カッコ悪い”と思うからなんでしょうかねえ。
また、「わたしの(心の)中では」「自分の(気持ちの)中では」というふうに(心の)(気持ちの)を省略した形、と考える事も出来るでしょう。
ところが、最近はこれを当人以外に使うケースも出てきています。
「道浦さんの中では、どのくらいのウエートを占めてるんですか?」
というような使い方です。
「道浦さんの中では・・・・」と聞かれると、やや不快に感じるのは、「人の心の中にまで土足で勝手に入り込んできやがって・・・」と感じるからなのかもしれません。
こういった言葉は、「あなたの中では」どうですか?
2000/5/24
(追記)
5年半ぶりに「追記」です。
2005年11月2日の読売新聞夕刊、シアトル・マリナーズのイチロー選手が、守備の上手な選手に送られる「ゴールドグラブ賞」を5年連続で受賞した、という記事。その中のイチローのコメントが、
「僕の中では取らなくてはいけない賞だと思っています。今年もこの結果を喜んでいる」
でした。イチローが「僕の中では」を使っていました。
2005/11/4
◆ことばの話127「茶髪」
昨日(5月23日)、「3人組みの強盗」のニュースを読みました。
その逃げた3人の容貌ですが、「年齢は20歳から25歳くらいで、全員、茶髪」でした。
この原稿を読む時に気になったのは、まず「茶髪(ちゃぱつ)」というのは、もう一般には十分通じる言葉になった俗語だが、ニュース原稿で使っても良い、ある程度品のある言葉なのかどうか。“毛を茶色に染めた、あるいは脱色した”とした方がより正確ではないか。」と言う点です。次に「茶髪と表現する事で、髪を茶色にした人たちに対する差別感を助長しはしないか」という点です。
結論を言うと、第1点については「いまや茶髪(ちゃぱつ)は、一般用語化しているし、“髪を茶色にした”という表現はあまりにも回りくどい」として却下。第2点に関しても「実際の特徴として茶色だった訳で、差別の意図もないし、差別の助長にも当たらない」と判断して、原稿のまま「茶髪」と読みました。
この「ちゃぱつ」という読み方、「ちゃはつ」とならなかったのはなぜかについて、武庫川女子大学・言語文化研究所の佐竹教授は著書「サタケさんの日本語教室」の中で述べています。
それによると、「髪」が後ろにつく熟語には
* ハツと読むもの・・・遺髪・整髪・長髪・調髪・剃髪・頭髪・怒髪・白髪・毛髪・理髪
* パツと読むもの・・・間一髪・金髪・銀髪・結髪・散髪・洗髪・染髪・短髪・断髪
* カミと読むもの・・・黒髪
* ガミと読むもの・・・襟髪・地髪・前髪
「ちゃぱつ」の「ちゃ」は音読みですから、後に続く「髪」の読み方も音読みになるのが普通で、それだと、「はつ」か「ぱつ」。そして、撥音「ん」か促音「っ」以外は「はつ」と読んでいるので「ちゃはつ」のほうが普通であろうと。それにも関わらず「金髪(きんぱつ)」からの意味の連想からか、「茶髪(ちゃぱつ)」になってしまったのではないかというのが、佐竹先生の論です。
この後でもう一つ疑問が出ました。
「今は、茶髪の人の方が少ないから、こういった場合にも特徴として言われるが、たとえば近い将来、茶色の髪の人の方が黒い髪の毛の人より増えてしまえば、もう髪が茶色いことは特徴的なことではないので、ニュース原稿に出て来ないであろう。逆に「逃げた男は3人とも髪が黒く・・・」てなことになるのではあるまいか。
はたして今の若者の“茶髪率”は、どれぐらいなのか?
報道部に来ている“茶髪”の大学生バイト君に「君の友達の男で、茶髪にしている人はどのくらいいる?」と聞いた所、「2〜3割くらいですかねえ。」という答えが返ってきました。
ほーら、この2〜3割が、5〜6割になるまで、あと数年かもしれませんよ!?
2000/5/24
◆ことばの話126「手びねり」
陶芸には、多少興味はあっても自分で作ってみようという気はほとんど起きません。
が、しかし。世はまさに陶芸ブームなんだそうです。
先日、会社の先輩が
「登り窯を作ったから、見に来て。」
と話しかけてきました。
「えっ、登り窯ですか?」
いくら陶芸にうとい私でも、登り窯は信楽などで実物を見た事もありますし、失礼ながらその先輩のうちの庭に、設置できるほどのスペースは逆立ちしたって出てこないことぐらいはわかります。しかし、その先輩は
「そっ!登り窯!」
と繰り返すではありませんか。
仕方なく次の休みに家に行ってみましたが、庭のどこにも登り窯らしきものはありません。
「どこにあるんですか、登り窯?」
「これ!」
と指差した先にあったものは・・・七輪でした。それも2台。普通に置かれた七輪の上に、もう1台の七輪を逆さまにかぶせた格好です。
「これが登り窯ですか・・・。」
「何を言ってるんだ、これでなかなか良い、手びねりの器が焼けるんだぞ。」
「手びねりって?」
初めて聞く言葉です。
「手びねりも知らんのか。手びねりっていうのはだなあ、粘土を手でひねって陶器を作ることだ。」
聞いてみれば別に難しくはありません。“そのまま”という感じさえします。
辞書を引いてみるとさすがに広辞苑には載っていましたが、日本語大辞典や新明解国語辞典には載っていませんでした。
しかし、陶芸関係者にとってはこの言葉は“常識”のようで、新聞に載っていた陶芸雑誌の広告にも
「手びねりの器」というのがありました。そこには「やきものづくりの入口でありながらどこまでも奥行きをもつ技法、それが手びねり。土をひねろう!いつでもどこでも器ができる」とありました。
そうかぁ、やきものづくりの入り口にも立っていなかった訳ですね、わたしは。
今からでも遅くはないから、土をひねろうって?いやあ、そんな“器”じゃあないですから、ボクは・・・。
2000/5/24
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